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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

魂を浄化する旅   ーダンテ『神曲』への誘い

本について 本、音楽、映画
 
 読書の秋のとりあえずの締めくくりとして、ヨーロッパ文学の古典中の古典を紹介したいと思います。文学が好きな人であるならば、人生のどこかの時点で紐解くことになるであろう、ダンテの『神曲』です。
 
 
 ダンテ・アリギエーリ。13世紀のイタリアを代表するこの詩人が、あらんかぎりの精力を傾けて完成させたのが、この『神曲』です。中世につきものの難解なシンボリズムを用いていたり、複雑に絡みあう当時のヨーロッパの政治状況を描いていたりという事情はありますが、この本が永遠の古典として残ることになったのは、作品のテーマがどんな時代の人間にも共通するものに触れているからなのでしょう。そのテーマとは、「魂がたどる旅」にほかなりません。
 
 
 ダンテ本人が、この長大な詩の主人公です。地の底にある地獄から、地球の裏側にある煉獄の山を経て、はるか天上の空間に存在する天国へ。ダンテは、聖母マリアと、かつて愛していた女性であるベアトリーチェの意志に導かれて、西暦1300年の春、復活祭の聖木曜日の夜中から、生きながらにしてこの長大な旅を体験することになります。
 
 
 死後の世界のすべてを知る使命が、私に託された。ここまで自己中心的なストーリーを作れてしまうあたり、ちょっと普通の人からは想像が及ばないところがありますが、「この宇宙の主人公は私だ!」くらいに思っていないと、大詩人は務まらないのかもしれません……。ここでは、河出文庫から出ている平川祐弘さんの訳を用いつつ、この作品全体へのイントロダクションである、『地獄篇』の第一歌を紹介することにしたいと思います。
 
 
 
ギュスターヴ・ドレ ダンテ 神曲 地獄篇
(画像は、ギュスターヴ・ドレによる挿絵)
 
 
 
 『地獄篇』第一歌は、ダンテが暗い森のなかでさまよっているところから始まります。
 
 
「人生の道の半ばで
  正道を踏みはずした私が
  目をさました時は暗い森の中にいた。」
 
 
 ここでの森は、ダンテ自身が抱えこんでいる罪の象徴です。罪というと、キリスト教の伝統から離れたところで生きている私たちのうちの多くの人にとってはあまり縁のない言葉であるように思いますが、「あらゆる人間は、最高度の魂の完成という境地に比べるならば不完全なものである」と考えることはできるかもしれません。こうした見方からすると、この世には正しい道を踏みはずしていない人などいないことになるので、この冒頭は、読者を一気に本の世界に引きこむものであるといえそうです。
 
 
 ダンテは、歩いているうちに森をぬけて、丘を登っているときに獣たちに襲われそうになりますが、逃げているあいだに、ある人物に出会います。その人はこの世の人間ではなく、死者でした。それも、ダンテがずっと手本にしようとして若いときから読みつづけていた古代ローマの詩人です。自己紹介を行ったその死者にたいして、ダンテは次のように問いかけます。
 
 
「ではあなたがあのウェルギリウス
  あの言葉の大河の源流となられた方ですか?」
 
 
 ウェルギリウスは獣たちを恐れるダンテにたいして、自分についてくるように勧めます。こうしてダンテは、この詩人のなかの詩人を導き手として、死後の世界への壮大な旅をはじめることになります。それにしても、「言葉の大河の源流」という表現は、なんと美しいのでしょうか!人間の世界に溢れかえっている言葉は、当てもないままとうとうと流れてゆくように見えますが、歴史のうちには、美しく均整のとれた言葉を他の人びとに示してみせることによって、母国語のあり方そのものを変えてしまう人が現れることがあります。
 
 
 ダンテ・アリギエーリも、『神曲』をラテン語ではなくトスカーナ方言で書くことによって、かれ自身がイタリア語という大河の源流になりました。私たちの日本語も、外来語をカタカナで表すようになってから久しいですが、たとえば、谷川俊太郎さんや村上春樹さんといった人たちは、新たな日本語の美の創造という仕事に携わっているということもできるように思います。谷崎潤一郎安部公房といった過去の作家たちの仕事についても、日本語とのかかわりという観点からみると、文学史がすこし違ったふうに見えてくるかもしれません。
 
 
 
ダンテ 神曲
(画像は、ドメニコ・ディ・ミケリーノによるダンテと『神曲』)
 
 
 
 最後に注目しておきたいのは、太陽と星のイメージです。太陽は、第一歌のうちに二度現れてきます。最初の表現は、次のようになっています。
 
 
「目をあげると、丘の稜線が
  もう暁光に明るく包まれているのが見えた。
  あらゆる道を通して万人を導く太陽の光であった。」
 
 
 翻訳では、「万人」には「もろびと」とルビを振ってあります。もう一つの箇所は、次のようなものです。
 
 
「時は折しも朝明けの時刻で
  太陽は星々をしたがえて昇ってきた。
  神の愛がはじめて天地の美しい事物を動かした時にも
  太陽とともにあったあの星々であった。」
 
 
 この二つの箇所で注目されるのは、太陽や星といった天体にたいして、スピリチュアルな意味づけがなされていることです。一般に使われていない言葉をあえて用いるならば、霊的な意味づけといってもいいかもしれません。人間を導く光であり、神がこの世界を創造した原初の時から、まったく変わることなく存在しつづけている光。罪の森のなかで迷うダンテに、天体の光が啓示のようにして二度示されるという事実は、魂を浄化する旅という『神曲』全体のテーマを予兆しているかのようです。
 
 
 夜明けの太陽が、私の魂の行く先を指ししめす。神の愛によって、天体は動く。『神曲』のうちにはどうやら、現代を生きる私たちの世界観とは異質なものの見方が息づいているようです。僕が数年前に読んだときには、『煉獄篇』がいちばん印象に残りましたが、この本を読む人は、そのときの自分の魂のあり方に応じて、それぞれに忘れられない箇所を見つけだすことになると思います。『神曲』のページをひもとく人は、死後の世界や神という、ふだんあまり向きあうことのないテーマにも出会うことになるでしょう。この世ではないところで秋の一夜を過ごしてみたい人に、おすすめの一冊です。
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)