「何が恥ずかしいのか、そして誰の前で恥ずかしいのか?獣のように裸なのが恥ずかしいのである。」
言うまでもなく、ほかの人の前では服を着るのが人間です。全裸で街のなかを歩き回ることは、たんに法律で禁じられているだけではなく、人間の本質に反している。私たちが生きているアジアでは裸へのまなざしがとても大らかなので、たとえ全裸の人を見たとしても「まぁ、素っ裸ね!うふふふ」くらいで済まされることもあるかもしれませんますが、ヨーロッパではそうもいきません。
衣服を着るのが人間であり、全裸なのは動物である。ここでは、二分法の思考がとても厳しく働いているということに注意しておきましょう。たとえば、私たちは小島よしおさんのような人を見てもあまり疑問を感じませんが(僕はけっこう好きです!)、ヨーロッパ的な二分法の原理からすると、「果たして彼は人間なのか、獣なのか?」という疑問が湧きあがってきます。小島さん本人としては、「そんなの関係ねぇ!」といいたいところかもしれませんが……。
こうした思考は私たちにはあまり縁のないものかもしれませんが、ギリシアから形而上学の伝統を受けついでいるヨーロッパには、きわめてなじみ深いものです。ここでは、デリダの議論をしっかりと追いかけるために、私たちの方でもこの二分法をしっかりと受けいれてみることにしましょう。すなわち、人間は服を着るものである。服を着ていないものは動物である。
そうなると、デリダは、浴室で自分が動物のような姿をしているところを見られたからこそ、恥ずかしいと思ったのだということになります。ここを出発点にして、デリダはこののち、この二分法に疑いをさしはさみながら、すさまじい思考の迷宮に入りこんでゆきます!その中で迷ってしまわないように、じっくりと考えながら進んでみることにしましょう。
まずは、裸のデリダではなく、猫をはじめとする動物たちのほうについて考えてみることにしましょう。よく考えてみるならば、とデリダは言います。はたして動物たちが裸であると、本当に言えるのだろうか。もちろん、動物たちは服など着ていないが、しかし……。デリダの言葉を追ってみましょう。
「(……)獣たちの固有のものとは、そしてそれらを人間から最終的に区別することとは、裸でありながら裸であることを知らないことである。」
動物たちは、自分が裸であることを知りません。デリダを見つめている猫は、自分が裸であるとはまったく思っていないことでしょう。振りかえって考えてみると、わが家のウィルもももたろうくんも、ずっと全裸です。数日前の記事では、僕は、彼らのヌード写真を彼らに無断で掲載してしまったということになります……。けれども、彼らはどうやら、自分が裸であることが恥ずかしいとはまったく思っていないようです。
このことの意味を体感するために、すべての人間が裸で生活している世界のことを思い浮かべてみることにしましょう。街を歩いていても、電車に乗っても、会社に行っても、すべての人が裸である。しかも、そのことを恥ずかしいとはまったく思っていない。こうした世界は私たちの想像を絶するものがありますが、動物たちの世界とはそのようなものかもしれません。
じつは、私たちの日本は、もともとこのような世界に近いところがあったと言われています。江戸時代の銭湯は、混浴であることが珍しくなかったそうですし、男女を問わず、服をちゃんと着ていない状態であいさつをかわすことなどもよくあったそうです。かつてそのような時代が実際にあったことを考えてみると、すべての人が裸で生活している世界というのは、じつはそれほど突飛な空想ではないのかもしれません。
本題に戻ります。動物たちの世界には、裸でいることが恥ずかしいという感覚がない。その意味では、彼らの世界においては、裸であるということがその意味を失っているともいえます。したがって、デリダは次のように結論します。
「そうであるとすれば、それと知らずに裸である動物たちは、真実には、裸ではないことになるだろう。それらは裸であるがゆえに裸ではないことになるだろう。」
動物は、裸であるゆえに裸ではない。そろそろ、もう何がなんだかわからなくなってきましたが、こうなると、人間が動物とはちがって裸であることを恥ずかしいと思うのはなぜなのかも、よくわからないような気がしてきます。裸であることが恥ずかしいとは一体、どのようなことを意味するのでしょうか?引きつづき、デリダの思考を追ってみることにします。
(つづく)
(Photo from Tumblr)