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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

絶対的他者としての猫   ージャック・デリダについて、いったん論じ終える

 
 ジャック・デリダと猫について論じるのも、今回が最後です。まさか、こんなに長くデリダの裸について語りつづけることになるとは思いませんでした。最終回となる今回では、人間の裸を見つめる猫のほうに焦点を当ててみることにしましょう。デリダは猫について、次のように言っています。
 
 
 「裸の私を見つめているのは「実在の猫である」と私が言うのは、その代替不可能な独異性を刻印するためである。」
 
 
 デリダは、自分を見つめている飼い猫のルクレティウスは、たんなる具体例ではないという論点を強調します。ラ・フォンテーヌからティーク、ボードレールからリルケまで、ヨーロッパ文学の歴史においてはたくさんの猫が描かれつづけてきたが、この猫は、そうした無数の猫たちのアーカイヴの中にただ回収されてしまうような存在ではない。この猫には、まさしくこの猫のうちにしか存在しない何かがある。
 
 
 デリダは、事態をさらに問いつめます。
 
 
 「私がそれを一匹の牡猫ないし牝猫として同定していることは確かである。しかし、はやくもこの同定以前に、それは、ある日、私の空間に、それが私と出会うこと、私を見ること、さらには裸の私を見ることのできたこの場所に入ってきた、代替不可能なこの生けるものとして私に到来するのである。」
 
 
 同じことを言っているようですが、猫の独異性は、哲学的にはより一層追いつめられていることに注意しておきましょう。部屋のなかに何かが入ってくるとき、その存在は、たとえば「これは猫だ」と認識するよりも前に、私の知らない何ものかとしてやって来ます。
 
 
 概念によって認識される前の、未知のもの。私たちはふだん、他者や猫たちをはじめとするあらゆるものを概念によって認識していますが、それらの概念はいわば、ものにかぶせられたヴェールのようなものです。「ああ、猫だ」と言ってしまったその時点で、やって来る何ものかのうちに宿っている独異性は、言葉の力によってただちに覆い隠されてしまいます。
 
 
 しかし、「ああ、猫だ」と口に出したとたんに消えてしまうもの、それこそが、私の追いもとめたいものに他ならないのだ。つねにすでに覆い隠されてしまうこの独異性をふたたび見えるようにするためには、一体どうしたら……。デリダはこののち、さらに問いかけをつづけていますが(彼ほど執拗な人間は、なかなかいません)、この論点については、今回はこの辺りで満足することにして、最後の部分に進むことにしましょう。
 
 
 
ジャック・デリダ 猫 動物 『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』
(猫を抱き、いつになく和んだ様子のジャック・デリダ
 
 
 
 「動物はいる、そこに、私より先に、そこに、私の近くに、そこに、私の前に(……)」
 
 
 わたしを見つめる猫は、わたしの近くにいる。しかし、「近くにいる près de」とは、どのような意味なのか?それとともにあることか?それの間近にいることか?それとも、それの真後ろにいることか?フランス語の表現「près de」の語源となったラテン語の単語「pressu」や、哲学史の知識などを縦横無尽に参照しながら、デリダはきわめて入念に問いつづけます。
 
 
 「動物はいる、そこに、私より先に、そこに、私の近くに、そこに、私の前に」。翻訳であっても、デリダの思考のリズムがよく伝わってくる表現です。わたしより先にやってきて、裸の姿を見つめることでわたしに恥を感じさせ、わたしのことを問いただすもの。その何ものかにつねにすでにともなっている、ある近さの体験とは……。デリダはこの箇所の最後で、次のように言います。
 
 
 「絶対的他者の視点、そして、ある猫のまなざしのもとで自分が裸なのを見られているのを見るときほど、隣のもの、あるいは近きもののあの絶対的他者性を、私に考えるべく与えるものは、何もないだろう。」
 
 
 裸のわたしのことを見つめる猫は、絶対的な他者である。デリダはこう言ってイントロダクションをひとたび終えたのちに、すぐさま飽くなき探求を再開します。わたしは、自分のいかなる意志とも関係なしに、絶対的な他者である猫のもとに、みずからの裸の姿をさらしてしまっている。いわば、裸を見られているとわたしが気づくよりも前に、わたしは自分の裸を見られているのだ。そのことはつまり、結局のところ……。
 
 
 デリダはまだまだ続けたそうですが、私たちとしては、もうそろそろお腹一杯です!この探求のつづきを知りたい方はぜひ、『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(鵜飼哲訳、筑摩書房、2014年)を読んでみてください。そこでは、かぎりなくマニアックですが、かぎりなく豊かな議論が饒舌に展開されています。
 
 
 それにしても、浴室で裸の姿を見られた体験についてこれだけ長く語りつづけられるとは、驚きというほかありません。デリダという人は、論争のさいに相手の文章をねちっこく引用しつづけることでも有名です。偉大な哲学者ですが、率直にいって、論争のマナーはあまりよくないと思います……。いつか、機会のあるときにまた論じてみることにします。
 
 
 レヴィ=ストロースジャック・デリダの文章をとおして、私たちは、猫について考えるためのヒントをもらいました。最後に、これらの探求を念頭に置いたうえで、私たち自身のほうでも猫について少しだけ考えてみることにします。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)