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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

旧約聖書と原初の殺人   ーあるいは、対話による赦しあいをもとめて

 
 「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。」
 
 
 ヨハネ第一の手紙第3章11節において、手紙の作者は、読者たちに互いに愛しあうように説き勧めています。このような生き方はもちろん、世界中の他のあらゆる宗教が勧めるものでもありますが、ここで言われているカインとは誰のことでしょうか。創世記第4章8節には、次のような記述があります。
 
 
 「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」
 
 
 最初の人類であるアダムの息子カインは、弟であるアベルを殺しました。聖書の冒頭に位置している創世記が私たちに伝えているメッセージの一つは、次のようなものです。人間たちは、時の初めからたえず争いを繰り返している。愛していたはずの人間を憎み、犯してはならない罪を犯しつづけている。この本においては、すべての出来事があくまでも淡々と描かれていますが、読んでいると、その展開の壮絶さに言葉を失ってしまう人も少なくないかもしれません。
 
 
 現代に生きる私たちからすると、「なにも、人間性についてそんなに悲観的に考えなくてもいいのではないか?」と感じてしまうところもありますが、誰かとのあいだに争いが巻き起こるときには、創世記の世界観が急にリアルなものになってきます。ひょっとすると、むき出しの闘争はただ単に、現実の世界では起こらないというだけで、本当はつねにすでに、あらゆる人間関係の奥底に潜んでいるのではないか……。
 
 
 平和な日常のうちに潜在している、むき出しの闘争。こうした争いがひとたび実際に起こってしまうと、わたしとあなたは、もうこの現実から目をそむけることはできなくなります。争いを解決したいと思うなら、湧きあがってくる憎しみの感情をなんとか振りきって、できるだけ冷静に話しあうことが必要になってきます。わたしがあなたを赦すことについては、すでに前回論じました。今回の記事では、逆に、わたしがあなたに赦しを求める状況について考えてみることにしましょう。
 
 
 争いにおいて、相手は、わたしのことをおよそ理解不可能な存在であると考えています。「なぜそんなことができたのか全くわからないし、わかりたくもない。」赦してもらうためには、わたしはあなたに、わたしのことを本当の意味で理解してもらう必要がありますが、ほとんどの場合には、すぐに理解してもらえる可能性はほとんどなさそうです……。どこまでもあきらめずに、赦しを求めつづけることが必要になってくると思います。
 
 
 
赦し キリスト教 カインとアベル ヘーゲル 精神現象学
 
 
 
 転換はふとした瞬間に、まるで天から何かが下ってくるかのようにして起きます。「あなたが言いつづけていたのは、ひょっとして、こういうことだったのか……?」それまでは自分の立場から語るだけだった相手がわたしの言うことを聴きはじめる瞬間は、突然にやってきます。わたしには、その瞬間がいつやってくるかをあらかじめ予想することはできませんが、この出来事が起こってはじめて、赦しの可能性も生まれてきます。
 
 というよりも、わたしのことを本当の意味で聴いてもらえたその時には、あなたからの赦しはすでに成り立っているのかもしれません。聴くこととは、「わたしとあなたは違う」というポジションを超えて、「わたしはあなただ」といえる地点に近づくことだからです。本当の意味で聴きあうこと、そのようにして互いを受けいれあうことが、罪を赦しあうことだといえるのではないでしょうか。
 
 
 ヘーゲルという哲学者は『精神現象学』において、互いの赦しにいたる対話について論じていますが、そこには、赦しのためには言葉をかわしあうことが何よりも必要だというメッセージがこめられているように思います。犯してしまった罪が重いものであればあるほど、対話することは難しくなってきますが、本当は事態が深刻であればあるだけ、真摯に話しあうことが必要になってくるのかもしれません。
 
 
 「本当の意味で聴くことへ向かう対話によってこそ、罪の赦しは可能になる。」しかし、ここで一つの疑問が湧きあがってきます。対話することが不可能なときには、私たちはどうしたらいいのでしょうか?相手との対話が成りたたない場合もありますし、最悪の場合には、殺人の罪を犯したカインのように、相手がもうこの世にいないケースもあります。罪を犯したものと犯されたもののあいだに、もはや対話の可能性が存在しない場合には、赦しもまたありえないことになってしまうのでしょうか。
 
 
 対話が成り立ちえないほどの罪を犯した場合には、罪の赦しはありえないのか。その答えはほとんど絶望的なものであるようにも思えますが、聖書は私たちに、「そのような場合においても、赦しはありうる」と言っています。おそらく、Sさんの問いに答えるためには、聖書という本の最も深いところにまで入りこんでみなければなりません。簡潔にではありますが、赦しえないものの赦しにかんする聖書のメッセージを見ておくことにしたいと思います。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
[今回の記事も、自分にはできないことをひたすら語りつづけるだけになってしまい、とても後ろめたいものがあります……。ここで思い出すのは、数年前に助手のピノコくんと、誕生日に手ぬぐいのプレゼントを贈るかどうかをめぐって、空前絶後の大ゲンカをしてしまったことです!一体なぜ、そんなものをめぐって争わなければならなかったのか?よりにもよって、なぜ手ぬぐいなのか?その詳細について記すのは、ここでは控えておくことにしますが、お互いに赦しあうためには長い対話が必要だということを、深く学ばされたエピソードでした。]
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)