イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

人間になった神   ー聖書のなかのイエス

 
 「互いのあいだに対話が成り立ちえないほどの罪を犯した場合には、罪の赦しはありえないのか。」今日の記事では、真実であるかどうかという点はとりあえず置いておくことにして、この問いにたいする聖書の答えを見てみることにします。
 
 
 聖書の答えは、とても明確です。たとえ相手が赦してくれないほどの罪を犯したとしても、赦しはありうる。ルカによる福音書第7章のエピソードで、イエスは自分のもとに近づいてきた女に、次のように言います。
 
 
 「そして、イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた。同席の人たちは、『罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう』と考え始めた。」(48〜49節)
 
 
 聖書が語るのは、人間の罪を赦すことができる人が、 かつて一度だけこの地上に現れたことがあるというメッセージです。ここに出てくる「罪深い女」をはじめとして、キリストと呼ばれたイエスは、多くの人びとの病気を癒すと同時に、罪を犯した人びとを赦しつづけた人でした。
 
 
 ここで引用した言葉からもわかるように、このことは、イエスのまわりにいた全ての人びとにとって、大きな驚きをもたらすものでした。一体、なぜそんなことができるのだろう。この人は、どんな権威によって罪を赦すことができるというのだろうか。
 
 
 この問いにたいして、聖書は次のように答えます。人間の罪を赦すことができたイエスは、神の子だった。それだけではなく、イエスは神の子であると同時に、神自身でもある。神は人間たちのことを救うために、人間の姿をとってこの世に現れたのだ。
 
 
 キリスト教の教えは、こうした奇蹟的な出来事が歴史の流れのなかでただ一度かぎり起こったと説く点で、とても特異なものであるといえます。イエスのことを信じようとする人は、とても大きな問いのもとに立たされることになります。それは、唯一の神が今から二千年前に人間となって地上に降りてきたということを、あなたは信じるかどうか、という問いです。
 
 
 私たちはここで、とても戸惑ってしまいます。そんな途方もないことを、一体どうやって信じればいいというのだろう……。日本ではキリスト教の教えがあまり知られていないので、この困難はさらに大きなものになっていると言っていいかもしれません。その一方で、聖書のメッセージが哲学の立場からみてもとても重要なものをはらんでいることは確かだと思います。
 
 
 
イエス・キリスト キリスト教 赦し
 
 
 
 今の時代には、哲学は大学で教わるものであるということになっています。資格を手にいれるのと同じように、勉強して知識を得れば、いちおう哲学を学んだといえることになっています。
 
 
 けれども、Sさんの場合のように、悩んだり苦しんだりしながら、魂の底から哲学することを欲するというケースもあります。その場合には、もう資格を取るのと同じようにはゆきません。その人は、ほかの誰のものでもない自分自身の痛みと向きあいながら、昼夜を問わず哲学しつづけることになる。哲学の歴史においては、アウグスティヌスパスカルキルケゴールなど、血を吐くようにして苦しみながら考えつづけた人びとが数多くいます。
 
 
 こうした視点からすると、イエスという人は、哲学からみてもけっして無視することのできない存在であるということになってきます。この世界には、人間だけでは解決することのできない苦しみが無数に存在している。そのような苦しみが、癒されることなく存在しつづけいていいのだろうか。この世とは、救われることのない人間がそのまま放っておかれるような場所なのだろうか。
 
 
 こうしたことを考えたとき、苦しむ人間たちのことを救うために神自身が人間となって現れたという聖書のメッセージは、とても痛切なものになってきます。確かに、これらのメッセージのことを、悩んでいる人間たちのために考え出された作りごととして捉えることもできますが、その場合であっても、上の問いかけが消えることは決してないでしょう。すべてのことをそのまま信じるかどうかは別にするにしても、自分自身が、あるいはすべての人が救われることを願うならば、聖書のメッセージはとても大きなヒントを与えてくれるものなのではないかと思います。
 
 
 すでに、このブログのいつもの記事よりも、だいぶディープなところに突っこんでしまっています……。僕がとてつもなく根の暗い人間であることがばれてしまいそうですが、残念ながら、まだもう少しのあいだは止まるわけにはゆきません!今回の探求もそろそろ終わりに近づいていますが、別の疑問をもう一つだけ見てみることにします。
 
 
 たとえば、殺人のように、相手が赦すことがありえない罪を犯したとする。それほど極端なケースでなくても、赦してほしい相手から赦しがえられないという例は、いくらでもあるだろう。そうした罪のすべても、神ならば赦すことができるというのだろうか。たとえそれが神のすることだとしても、罪を犯された当の相手の赦しなしに赦すことは、はたして正当だといえるのだろうか?
 
 
 こうした問いはとうぜん生まれてくるものだと思いますし、それに納得のゆくかたちで答えることは、ほとんど不可能であるようにみえます。けれども、聖書はこの問いにたいしても、明確な答えを与えています。神の赦しは、なぜ当の相手の赦しがなくても成り立つのか。赦しについての私たちの探求もそろそろ終わりに近づいていますが、この点にかんする聖書のメッセージをたどってみることにします。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)