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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

赦されえないものを赦すもの   ーイエスと十字架の死

 
 神が人間の罪を赦す。こうしたイデーについて、現代を生きる私たちがどう考えるべきかという点はとりあえず置いておくにしても、「罪を犯された当の相手が赦すことなしに、罪を犯した人間が赦されてしまってよいのか?」という問いは、どちらにしろ残るように思います。今回の記事では、この疑問にたいする聖書の答えを見ておくことにしましょう。
 
 
 聖書のメッセージは、次のようなものです。あらゆる罪は、悔い改められるかぎり赦される。けれども、それはすべての罪がなかったことになるという意味ではない。あらゆる罪は、かならず贖われなければならない。
 
 
 それでは、なぜ罪の赦しというものがありうるのでしょうか?聖書によれば、それは、罪を犯したわたしの身代わりとなって死んだ人間がいるからです。罪の贖いは、罪を犯した当人ではなく、人間の姿をとってこの世に現れた神である、イエス・キリストが身代わりとなって引き受けた。これが、あの有名なイエスの十字架のうえの死の意味です。
 
 
 はじめて聞いたときには、実感をともなって受けとめることがとても難しい考え方です。唯一の神が、人間のために死ぬ?そもそも、神が死ぬということ自体がとてつもないことであるように思えるのに、それが罪を犯した人間たちのことを赦すためとは、一体どういうことなのだろう……。確かに、こうしたイデーは哲学の範囲を完全に超えるもののようにも見えますが、その一方で、このイデーのうちには、測りしれないほどに深い意味がこめられていると見ることもできるようです。
 
 
 人類学者のマルセル・モースや、彼の探求を引きついだ思想家のジョルジュ・バタイユといった人びとに論じられて以来、贈与というテーマは、現代の哲学のなかでもとても重要なものになっていますが、十字架のイエスにおいて問題になっているのは、人間が考えうるかぎりの究極の贈与であるということができるかもしれません。それは、みずからの命を犠牲にして他者に与えるという贈与です。
 
 
 罪を犯してしまったと自覚した人は、自らのことを激しく苛みます。わたしの心は、誰よりも醜い。わたしは、生きるに値しない人間だ……。神による人間への命の贈与は、そうした苦しみの叫びのすべてを超えて、その人のもとに届きます。神はその人にむかって、次のように言います。あなたは、自分のことを生きるに値しないなどといってはならない。命のかぎり生きなさい。わたしは、あなたが自分の血の中でもがいているのを見たとき、血まみれのあなたに向かって、生きよと言ったのだ。
 
 
 聖書は、イエス・キリストが罪を犯した人間のために命を捨てたのは、それほどまでに痛切に人間のことを愛していたからだと語っています。ここでは、こうした考え方から読みとれることについて、聖書の信仰を前提とせずに考えておくことにしましょう。
 
 
 
イエス キリスト教 十字架 贈与 赦し ラファエロ
 
 
 
 罪がどこまでも重いものである場合、赦しはほとんど思考することさえも不可能なものになります。そうしたときに、人間たちの世界の内側だけで赦しについて考えようとすると、かならずどこかで赦しの限界の問題に突き当たらざるをえませんが、聖書はこの点について、私たちにとても大きなヒントを与えていると思います。
 
 
 もしも、赦されえないほどの過ちが赦されることがあるとしたら、それは、ある法外な愛によってもたらされるしかないのではないか。人間にはほとんど想像することさえもできないほどの愛、どれだけ重い罪を犯した人間にも注がれる、あらゆる限界を超えた愛だけが……。
 
 
 そのとき、いったい誰が赦すのでしょうか?どのような愛が赦すのでしょうか?現代を生きる私たちはここで、大きな問いのもとに立たされてしまいます。けれども、そのような赦しがもしも存在するとしたら、そこには法外な愛がかかわってくるのではないかということについては、哲学の立場からも想像することができるように思います。その場合、哲学は、あらゆる限界を超える愛の可能性について問わなければならないことになるでしょう。
 
 
 終わりに、聖書の言葉をもう一つだけ引用しておくことにします。前回の記事で引用した、ルカによる福音書第7章の箇所の前で、イエスは近づいてきた「罪深い女」について、次のように言っています。
 
 
 「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ないものは、愛することも少ない。」(47節)
 
 
 簡潔にではありますが、罪の赦しについて、聖書のいうところをたどってみました。最後に、私たちの探求が見いだしたことについて、もう一度振りかえって考えてみることにしたいと思います。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)