イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

光と闇をめぐる闘い   ー待合室で考える

 
 ピノコくんが探してきてくれた眼科クリニックは、アメリカ帰りの凄腕ドクターが開設したものだそうです。なんでも、院長のDr.Yは、ドライアイの概念を日本に持ちこんだ研究グループにに属していらっしゃったそうです。僕自身はドライアイではありませんが、そうした事情を聞いていると、Dr.Yこそが自分を苦しみから解放してくれる救世主のような気がしてきます。
 
 
 サンコバという、今年の初めに近所の眼医者さんからもらった赤い薬をさしても、あまり効果がなくなっている今、すこし恐いですが、やはり行くしかないのかもしれません。ふだん、電車を乗りかえてまでお医者さんのところに行くことはほとんどありませんが、朝の山手線に揺られながら、おそるおそるDr.Yの診察室に向かいました。
 
 
 
眼科 眼精疲労 御徒町
 
 
 
 Yクリニックにたどり着くと、診察時間がはじまる前なのにとても混みあっています。やはり、ここは人気のクリニックなのだ……!不安の入りまじった期待を抱きながら、さっそく、保険証を出したり、視力検査を受けたりなどといった行程をすませます。検査のあと、「それでは、番号を呼ばれるまでお待ちください」と言われ、さまざまな人でひしめいている待合室のソファーに腰かけました。
 
 
 待ち時間がつづいていると、せっかく奮い立たせたはずの勇気が、だんだんとしおれてゆくのを感じます。それと同時に、左目もふたたびシクシクと痛んでいるような気がしてくるから不思議です。「やっぱり、僕の目はもうダメなのだろうか……。」そういう風に考えてはいけないのはわかっているはずなのに、なぜかネガティブな思考が止まりません!
 
 
 そのうち、心と身体が、そして、自分自身の将来と左目の未来が入りまじって、不安は雪だるまのように大きくなってゆきました。セーレン・キルケゴールの『不安の概念』をはじめとして、これまで不安なるものについてはさまざまな本を読んできたはずなのに、いざとなるとこんなに不安にもろいとは、あんなに勉強したことは、いったい自分にとって何だったのだろうか。目をつぶると、たちまち目前に巨大な闇が広がります。人間からあらゆる未来を奪いとる、はてしない暗黒の空間です……。
 
 
 
眼精疲労 光と闇
 
 
 
 「不安においては、対象aが主体から落ちる。」けれども、ジャック・ラカンのわかったようなよくわからないような定式のことを思い出していると、哲学者のはしくれでありながら、この体たらくではさすがにまずいという気がしてきます。降りかかってくる危機を考えることで乗りきってこそ、一人前の思想家のはずです。なんとか勇気を振りしぼって、自分の内側にひろがる無限の暗黒空間に向きあうことにしました。
 
 
 たとえ身体は待合室のソファーから動かせないとしても、精神は自由です。目の前でかかっているテレビのニュース番組の音声や、通りすぎてゆく患者さんの足音、クリニックの受付の女性の呼び声などからどこまでも遠く離れたところに引きこもって、思考の世界に沈みこんでゆきます。
 
 
 そもそも、哲学者たちは、はるかな古代から今に至るまでずっと、考えるという行為を光のイメージによって捉えつづけてきました。イデアの光、理性の光、志向性の光。時代の移りかわりとともに呼び方はさまざまに変わりましたが、「認識することとは、闇を照らしだすことである」という哲学者たちの信念が揺らぐことは、これまでありませんでした。
 
 
 僕も、曲がりなりにも哲学者であるならば、考えることのうちに宿っている光の力を信頼しなければならないはずです。闇がどれだけ深くなろうとも、認識の光は、そのただなかに射しこんでゆくことができる。左目の場合を例にとるならば、たとえ自分の未来が真っ暗に見えたとしても、それは見せかけにすぎません。目はあくまでも、Dr.Yのおかげで見えるようになるか、ならないかのいずれかです。どちらにしても、ただ起こることを受けいれて、認識するのみです……。
 
 
 思考は、科学の世界のほうに飛んでゆきます。現代の宇宙物理学によると、なんと、この宇宙のエネルギーの9割以上が正体不明のものだそうです。かねてから知られていたダークマターに加えて、最近では、ダークエネルギーなるものの存在が科学者たちの世界をにぎわせています。現代科学の力をもってしても、宇宙の世界はまだまだ未知だということなのでしょう。
 
 
 けれども、人類の認識の光は、少しずつではあるけれども、着実にこの宇宙の隠された秩序を照らしだしつづけています。あのスーパー・カミオカンデのような超高性能観測装置をこれからも作りだし、高次元の時空を含みこむ理論物理モデルを構築してゆくことで、宇宙の広大な闇は、しだいに光のもとにあらわになってゆくはずです。
 
 
 哲学、科学、芸術。ここにあるのは、光と闇をめぐる、人類の永遠の闘いであるといえるのではないでしょうか。認識の光はあらゆるものを覆いつくす闇に、はたしていつの日か打ちかつことができるのか。光と闇の闘いといってしまうと、なんだか少しアブない響きを帯びてくるような気もしますが、こうした見方のうちには、ある種の捨てがたい魅力があるのも確かです。僕も、これからも哲学者として生きたいならば、目の不安などには負けずに、光の側に立ちつつ、世の中のあらゆるトピックについて考えつづけてゆくことが必要なのかもしれません……!
 
 
 
眼精疲労 光と闇
 
 
 
 「philoさん、philo1985さん。第一診察室にお入りください。」ああ、ついに、Dr.Yと対面するときがやってきてしまいました!やっぱり不安ですが、ここまで来たら、もう逃げることはできません。ソファーを立ちあがって、震えながら第一診察室に向かいました。
 
 
(つづく)
 
 
 
 
 
 
 
 
[今回は、Dr.Yの呼びかけによって中断されてしまいましたが、光と闇というテーマについては、もっと掘りさげて考える必要がありそうなので、いずれ折を見て論じることにしたいと思います。理性の光というテーマについては、もしよろしければ、以下の記事もご覧ください。]
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)