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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

存在しないことの幸福

この世の片隅をさまよって 哲学
 
 おいしいものを食べることと、さりげない音楽を聴くこと。どちらも、リフレッシュの手段としては理想的なものです。けれども、私たちを生みだした母なる自然は、こうしたやり方をはるかに超える、究極のリフレッシュ・メソッドをすべての人に与えてくれています。そうです。それは、すべてを忘れて眠ることにほかなりません!
 
 
 エマニュエル・レヴィナスをはじめとするわずかな先駆者たちをのぞいて、これまでの哲学は、眠ることの力についてあまり饒舌には語ってきませんでした。それは、一つには、理性を用いて哲学をする人にとっては、あらゆる思考を停止させてしまうあの眠りというものが、哲学の営みそのものからは疎遠なものに感じられてきたという理由があるのかもしれません。
 
 
 僕も、これまではそれほど関心を抱いてきませんでしたが、最近になって、眠りがもたらす力について、急速に尊敬の念を強めるようになっています。今回の記事の残りでは、これまでの不義理をすこしでも挽回するために、眠りにたいして、哲学の立場から惜しみない賛辞を捧げることにしたいと思います。
 
 
 何も考えないということのすばらしさ!たしかに、人生がうまく追い風に乗っているときには、考えることはこのうえない喜びをもたらしてくれます。考えれば考えるほど、未来のヴィジョンがつぎつぎに開け、明日がやってくるのが、もう楽しみで楽しみで仕方なくなる……。希望のなかで「自分には何でもできる!」と感じることができる、かけがえのない青春の季節です。多くのひとの人生には、そうした奇蹟のような時期もあるというのは事実です。
 
 
 その一方で、苦しみは、いつでも私たちのことを待ちかまえています。あるとき、苦しみは、幸福に酔いしれている私たちのことを突然に掴まえて、地獄の底にまで突き落とします!そうなると、ひどい場合には、人生はもはや拷問にも近いものになってしまいます。すぐには改善できる余地もないまま、「生きてゆくことそのものが辛い……。」といった状況に甘んじなければならない場合には、一体どうしたらよいのでしょうか。
 
 
 眠りましょう、とにかく眠りましょう!私たちは、眠っているあいだには、いわば存在していません。意識もなく、思考もなく、心配ごともなく……。あらゆる物事から無条件で逃れることのできるあの甘美な時間は、自然が私たちに与えてくれた最後の自由です。こうした観点に立つときには、「眠りが与えてくれるのは、存在しないことの幸福である」とでもいうことができるかもしれません。
 
 
 
眠り リフレッシュ 存在しないことの幸福
 
 
 
 存在しないことが幸福であるというのは、よく考えてみると、とても不思議なことです。眠っているとき、もしも自分が本当に存在していないのならば、幸福であると感じることもけっしてないはずです。それなのに、「眠ることは幸せだ」という感覚は、私たちのうちに否定しがたい実感としてあるように思います。眠っているとき、私たちははたして存在しているのでしょうか、それとも、存在していないのでしょうか?
 
 
 ここでは、次のように事態を表現してみたいと思います。「眠りにおいて、ひとは、存在しないというしかたで存在している。」これはこれで謎のような表現になってしまいますが、眠りという営みには、そうした解き明かしがたい秘密が宿っているのも確かなようです。起こっていることを言葉で語ろうとすると、どうしても矛盾した表現にならざるをえない……。眠りは、哲学の営みが自分の領分に足を踏み入れてくるのを、静かに拒んでいるようにも思えてきます。
 
 
 それにしても、眠ることは、なんという大きな安らぎを私たちに与えてくれることでしょうか!ほんの十分間のあいだ寝るだけでも、すべてがリセットされて、すこしだけ新しい気分で人生を迎えることができます。眠りから覚めたあとのなんとも言いようのない感じを言いあらわすためには、もう一つ別の記事を書いてみなければならないでしょう。すべてが終わったあとにまた始まったような、あの独特な感覚……。この後すぐにではないですが、いずれまたトライしてみたいと思います。
 
 
 
 
(Photo from Tumblr)