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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

デカルトへの疑問

 
 すでに、精神的にも肉体的にも、だいぶ回復しつつあります!今回は、以前の記事で考えたデカルトの「高邁の心」について、今の地点から考えなおしてみることにします。
 
 
 すでに一度論じましたが、デカルトは『情念論』のなかで、高邁の心のことを道徳の鍵であると言っています。そして、この道徳の核心は、自分の意志でどうにもならないものに対する執念をなくし、ただ、自分の生を導いてゆく精神の意志を認識することのうちにあるのだとしています。
 
 
 これは簡単にいうと、「何があっても、精神の意志を堅くもちつづけてベストを尽くすなら、それでいいじゃないか!」という態度を意味します。そうすれば、たとえ何が起こったとしても、自己自身にたいする尊敬の念は保たれる。これは、この人生にたいしてきわめて勇ましい態度を取ることであり、いわば、賢者にして戦士でもあるような生き方であるといえます。
 
 
 こうした境地をめざしてゆくのが重要であることについては、今も自分の意見は変わりませんが、今回の件をとおして、すこしだけ疑念が生まれてきました。短いですが、デカルトの「高邁の心」について、自分なりの疑問を書いてみることにします。 
 
 
 要点は一言でいうと、とても情けないですが、「僕にはムリでした!」ということに尽きます。将来がまったく見えないというくらいならば、まだ僕には十分に闘えました。しかし、激しい肉体の苦痛のなかで、今後の人生で眼が使えなくなる不安に脅かされながらいつまでも闘いつづけてゆくことは、僕にはできませんでした。
 
 
 うっかり自分で書いてしまったこともあって、「高邁の心」のことは、さきの一週間のあいだもつねに心の中に浮かんできたので、ことあるたびに「闘うのだ、philo1985よ!」と心のなかで叫びつづけていましたが、苦痛には勝てず、あっさりと限界がきました。そして、いつしか、デカルトの『情念論』ではなく、太宰治の『人間失格』のほうが心を支配するようになっていました。すでに書いたように、最後の地点では、ただ生きているというむき出しの事実しか、自分には残っていませんでした……。
 
 
 
高邁の心 デカルト 情念論
 
 
 
 これは明らかに、僕の圧倒的な力不足な面もあります。これから先も高邁の心をもてるように、自分でも魂の鍛錬をつづけてゆくつもりです。けれども、ここには、それだけでは片づかない事情もあるように思います。
 
 
 たとえ、精神の意志を堅くもちつづけて人生を闘いつづけたとしても、それが悲惨なものに終わってしまうことはありえます。デカルトの議論によれば、その場合にも、あくまでも自分がベストを尽くしたという事実に満足するべきであるということになりそうですが、最後に自分が死んでしまうときにも、それで納得することははたして可能なのでしょうか?
 
 
 ひょっとすると、最強の賢者にして戦士であれば、自己自身にたいする尊敬のうちに死んでゆくことは可能かもしれません。たしかに、日本の武士たちは、自死という行為を美徳の高みに引き上げようとしました。けれども、僕個人についていうならば、何か大きなことを成し遂げたあとならともかく、何もできないままに犬死にというのは、あまりにも辛すぎます!
 
 
 絶望の体験には、自分の死という要素が必然的にかかわってきます。デカルトの「高邁の心」は、平常時には有効であっても、そのようなときには一つの限界に突き当たらざるをえないのではないか。「もはやこれまで。己の人生をまっとうし、犬のようにくたばるのみ!」というのは、少なくとも僕自身の選択としては無理でした。自分の人生については何か別の態度を取っておくことが必要なので、もう少し探ってみることにします。
 
 
 
 
 
 
 
 
デカルトの「高邁の心」については、もしよろしければ、以前のこちらの記事もご覧ください。]