イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

死ぬことと救いの可能性

 
 苦しみと絶望と死について、もう少し分析を加えておこうと思っていましたが、細かく書いているとキリがありません!そうしたことについては、いずれまた別の機会に考えなおすことにして、今回の記事では、僕が絶望からどうやって立ち直ったのかについて書いておくことにします。
 
 
 端的にいうと、僕が絶望から立ち直ることができたのは、この世の次元には属さないところで起こる、救いの出来事を信じることによってでした。結局、この世界だけでは、どうしても僕の悩みを解決することはできなかったといえます。
 
 
 と、書いてしまうと、その瞬間に「正気を失って、向こう側に行ってしまった人」認定を受けてしまうのではないかという不安が、どうしても拭い去れません!たしかに、通常の経験の範囲は大きくはみ出てしまいますが、なるべく哲学の範囲を越えないようにしたいと思いますので、もしよろしければ、少しだけお付き合いください。
 
 
 救いの問題については、以前の記事で少しだけ触れたことがありますが、僕は今回、この問題について、態度を決めなければならない状況に追いこまれました。実は、このトピックについてはブログを始める以前にもくり返し考えていたのですが、絶望のなかで、あらためて自分の覚悟を決めるように迫られました。
 
 
 絶望のなかで願わずにはいられなかったのは、次のようなことでした。たとえ、何もできずにそのまま死んでしまうとしても、誰かが、あるいは、何かが自分のことを何らかのしかたで救ってくれるのではないか。ただ、あらゆる想像を超えたところで起こる、救いの可能性だけが……。
 
 
 このような救いは、すべてのものごとをひっくり返すような、ある種の奇跡としてしか考えることができません。救いの出来事は、もしそういうものが起こるとしたら、世界の通常の秩序をはるかに超えたところで起こることでしょう。
 
 
 言うまでもなく、死後の救いの出来事については、人間は前もって真実を知ることができません。死がたんなる自分の消滅を意味するということも十分にありえますし、今の時代には特に、そう考えている人の数は多いようです。死んだときに救われるかどうかという問いについては、ただ、自分は救われるはずだと信じることだけが可能です。
 
 
 さらに困ったことに、人間には、救われるということがはたして何を意味するのかさえも、前もって理解することができません!もしも救われるとするならば、はたして、死んだのちにも意識はそのまま続くのでしょうか。それとも、まともに想像することすら難しいですが、私たちの魂は、死んだのちに何らかの永遠の状態に移行するのでしょうか。ここには、とうてい理解することのできない神秘の領域が広がっています。原理的にいって、こうした問いにはっきりとした答えが出る日がやって来ることは、永久にないでしょう。
 
 
 
救い 絶望 死 哲学
 
 
 
 その一方で、今回、抜けだしようのない絶望から僕を救ってくれたのは、こうした救いの出来事の可能性を信じることでした。自分はこの世に生まれてきて、何もなしとげることもできないままに、ただ死んでゆくだけかもしれない。僕が哲学を勉強してきたことも、これまで文章を書きつづけたことも、ひょっとすると、すべてが無駄に終わってしまうかもしれない。
 
 
 けれども、この人生が終わりを迎えるときになって、誰かが、あるいは、何かが自分のことを救ってくれるのだとしたら、すべてをあきらめることはせずに、命のかぎり生きてみることもできるかもしれない。そう言っている自分でさえも、きちんと意味がわかっているわけではないけれど、もしも、救いのような出来事がありうるとするならば、死ぬことがすべての終わりではないとするならば。そう思いました。
 
 
 はたして、哲学者としてこういう出来事について語っていいのかどうか、正直にいって、僕には確信が持てません。その一方で、僕は、死ぬことと救いの問題は、この世で生きてゆくうえで最も重要な問題のひとつなのではないかと考えています。僕が大学で十年間をかけて哲学を勉強したうえでたどり着いたとりあえずの結論は、「哲学は、今の時代であっても、本気で救いについて考えてみてもよいのではないか」というものでした。救いの哲学のようなものを作りあげることができないかどうか、これからできるかぎり挑戦してみることにします。
 
 
 今日の記事では、救いの出来事について、あまりにも性急なやり方で語ってしまった気がします。哲学といいながらも議論がきわめて不十分なものになってしまい、申し訳ありません……。この問題については、僕とはまったく違う考え方をしている方もたくさんいることと思いますが、何かの参考にでもなれば幸いです。このトピックについては、いずれまた、折を見て論じなおすということにして、もう少しこの議論の帰結をたどってみることにします。