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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

神の存在について

 
 ここまで来たら、救いについて、もう少し書いておくことにします。くり返しになってしまいますが、僕とは異なった意見を持っている方は多いと思いますので、「これこそが真理だ!」というのではなく、何かの参考になればということで考えてみます。
 
 
 死ぬことは、たんなる消滅を意味するのではない。それがどのようなことを意味するかは別にするにしても、死んだときに救われるという可能性はあるはずだ。
 
 
 こうした主張はもちろん、科学的に根拠のあるものではありませんが、だからといって、真っ向から否定されるものでもありません。論理的には、そういった可能性は十分にありえるのではないでしょうか。
 
 
 けれども、そう考える場合には、「誰が、あるいは、何が救うのか?」という問いを避けることはできないように思われます。たしかに、論理的には「救うものは誰もいないけれども、死後の魂は自動的に救われるのだ!」という可能性もありえますが、そうしたオートポイエーシス的な救いの可能性は、少なくとも僕には、それほどリアルに感じられません……。救いの可能性を信じるなら、自分を救ってくれる何らかの存在が必要になってくるのではないかと思います。
 
 
 一言でいうと、僕は、神は存在するのではないかと考えています。たしかに、この世界において神の存在を信じない人が多数派になってから、かなりの月日が流れているように見えますが、実はまだ、「神の死」の出来事から、それほど長い時間が経っているわけではありません。私たち人間が「神の不在」の時期に入ってから、長くみても200年、短くみるならば100年、あるいはそれ以下の時間しか経っていないといえます。
 
 
 ここで少しだけ、神の存在を信じていた哲学者たちの例を挙げてみることにします。カントは、神を信じていました。ベルグソンも、神について語っていました。そして、40年ほど前に亡くなりましたが、20世紀を代表する哲学者であるマルティン・ハイデッガーは、「最後の神」という謎めいた概念を残しています。それぞれ、意味あいは少しずつ異なりますが、この世の次元を超えたところに存在している神なるものについて哲学的に考えたという点では、この三人の思考は共通しています。そのほか、神の存在を信じていた哲学者たちの数は、近年になってからだけでも数えきれないほどです。
 
 
 
神の存在 カント ベルクソン ハイデッガー
 
 
 
 こうした例を見ていると、どうも、哲学という営みは、神の存在に何らかのしかたで関わらざるをえないようにも思えてきます。たしかに、現代の世界の表舞台からは姿を消してしまっていますが、神という存在は、今でも変わることなく、さまざまな哲学者たちの思考のあちこちに姿を見せつづけているからです。
 
 
 こうした状況を踏まえつつ、僕は、これから先の人生で、救いの可能性と神の存在について問う哲学を作ってゆきたいと考えています。こうした哲学は、確実に知ることができるものごとを扱うのではないので、たとえば、信じることの哲学というかたちをとることになるでしょう。けれども、哲学の範囲でこうした問いを立てることは、十分に可能なのではないかと思います。
 
 
 もちろん、こうした問題だけを考えつづけているならば、「なんだかアレな人」になってしまうことは避けられません!そもそも、社会のなかでまともに受けいれられる可能性についてさえも、とても心配になってきます……。
 
 
 今回は人生上の問題に突き当たってしまったために、自分のほうから書かざるをえなくなってしまいましたが、ひょっとすると、神と救いについての哲学は、裏方でひっそりと作りあげてゆくべきものなのかもしれません。この点についてはどうしたらよいのか、自分でも、まだはっきりとした答えが出ているわけではありませんが、今後もじっくりと考えつづけてゆくことにして、とりあえず、神についてはあと一回だけ考えてみることにしたいと思います。