イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

最後まで死にきって

 
 今年も終わりですが、気分の移り変わりは激しいものがあります。躁鬱の気があるのではないかという気もします。眼のほうも少しよくなっては来ましたが、相変わらず治らず、先行きはまったく見えません。
 
 
 僕はもう、この世でどうやって生きてゆこうかということは、どうでもよくなってきました。どちらにしろ、健康のことは自分の自由にはなりません。やれるだけやってみようとは思いますが、こればかりはどうしようもないかもしれません。
 
 
 ただ、僕にもあきらめられないものがあります。それは、自分の思想です。僕にはもう、信仰をのぞけば、自分の思想しか残っていません。これまでずっと哲学を勉強してきましたが、僕はまだ、そのために生き、そのために死ねるような自分の思想を作りあげていません。
 
 
 もう、勉強のことなんてどうでもいいから、これこそが自分の思想だといえるようなものを、ただの叫びと区別さえつかないような、命そのものとしかいえないような思想を残したい。それさえ残せれば、この世に生きた証としては十分です。
 
 
 その上で、僕はいつか、自分の命がほとばしるようなものを書きたい。そのためにはおそらく、悩んで悩んで苦しみぬいて、死んで死んで死にきって、もう何も残らないというくらいに、すべてのことを捨てきらなければなりません。人間に付きまとっている余計なものすべてを捨てて捨てて捨てきって、もはやただのむき出しの命でしかないようなところにまで、自分を落としこまなければならない。
 
 
 そのとき、人間は死にます。本当の命に至るためには、人間はいちど死ななければならない。死んだこともないのに、生きているというのは嘘です。精神の限界にいたって死にきった人間だけが、はじめて生きることもできるのではないでしょうか。
 
 
 そのときこそ人間は、書くことによって、生きるということの本当の意味を伝えることができるのかもしれません。読んだ人が、生きるということは本当にすばらしいと思えるような、もう、この世で生きていたくないだとか、すべて終わってほしいだとか、死にたいだとかいった言葉なんて出てきようのないような、純粋な命そのものでしかないような、何でもいいからやってやりたくなるような、誰かを愛したくて愛したくてたまらなくなるような、そういうものを書けるとするならば、そのとき、僕の人生には意味があったということになるでしょう。
 
 
 僕にはまだ、書けることと書けないことのあいだに迷いがあります。けれども、これからの僕は、もう本当に書きたいものだけを書いていったほうがいいかもしれません。一度くらいは自分のすべてを壊しつくして、そこから新しい命が生まれてくるのを見てみたい。僕は死ぬことに取りつかれていますが、生きることにも取りつかれています。たとえ何があっても、生きつづけていたい。
 
 
 
叫び 生 死 躁鬱
 
 
 
 何がなんだかわかりませんが、今年はこれで終わりにしたいと思います。来年は、たとえこの世でどれだけ失敗することになろうとも、自分の命の思想をつかみ取りたいと思います。どちらにしろ一度は完全に終わっているので、自分の人生を一年くらいは棒に振っても、もはやどうでもいいのではないかという気になってきました!
 
 
 なぐり書くようになってしまい、申し訳ありません……。けれども、今の僕は確かにやけくそではありますが、生きることへの希望に燃えています。来年は、この世もあの世もぶっちぎって命の思想を追いもとめるしかありません!それでは、よい新年をお迎えください!