「世界史に残りたい。」こうした望みを今までずっと持ちつづけてきたことについては、前回の記事ですでに書きましたが、あれからまた考えたことがあります。
どうやら、キリスト者として生きるということは、「自分の望みではなく、神さまの望みにしたがって生きる」ということを意味するようです。その点からすると、世界史に残りたいという望みは、あくまでも自分の願望にすぎないので、いわば、不純であるということになってしまいそうです。
もちろん、クリスチャンとして世界史に残る偉人になる可能性は、十分にありえます。アウグスティヌスやキルケゴール、マザー・テレサといった人びとは、まさにそうやって歴史に残りました。けれども、彼らはまずもって、神さまへの信仰に生きつづけた人びとでした。僕のように、「何か大きなことを成しとげて、歴史に残ってやる!」と思っていたわけではないというのは確かなようです……。
「それでは、神さまの望みにしたがって生きるとは、いかなることか。」この問いにたいする答えとなると、今の僕にはまだよくわかりませんが、とりあえず、人生の目標をこのあたりで変えてみることにします。
これからは、自分の望みではなく、神さまの望みにしたがって生きてみよう。そうなると、一体、どんな人生が開けてゆくことになるのでしょうか。もはや、よい方向には開きようのない気もしますが、ひょっとすると、何かが変わるのでしょうか……?
とにかく、ひとまずは「さらば、世界史」といったところです。正直に言うと、もうあきらめたと思ったら、どこかの時点ではからずも偉人になってしまって、逆転満塁ホームランで世界史に残ってしまうというストーリーを期待したいところではありますが、そう考えるのは、さすがに、あまりにも浅はかというものです。地道にがんばります。