今回の記事では、ひとつの概念を提出してみたいと思います。それは、「絶対的外部性」というものです。
もしも神が存在するとするならば、人間にはもちろん、神がどのような存在であるのかを知りつくすことはできません。私たちが思考のうちで神に触れるとしても、神はその思考を無限にあふれ出し、私たちからどこまでも遠く離れたところで、永遠にとどまりつづけるでしょう。
その意味では、神はいかなる外部よりも外部に存在しているといえます。認識の光がけっして及ぶことのできない、冥さをともなう無限の外部性。古代や中世の哲学者たちは、こうしたことについて、現代の哲学者たちよりもずっと鋭い感覚をもっていたように思います。
神の存在について問いかけるためには、この感覚を取り戻すことが必要なのではないか。絶対的外部性という概念は、この冥さをともなう無限性について考えてゆくうえで、ひとつの手がかりとなりうるものなのではないかと思います。
彼らはどこまでも、「この世界の外側を考えるべきではない!」と主張した人たちでした。たとえば、ドゥルーズの内在平面という概念は、その路線が行きつくところまで行ったことの一つの大きなしるしであるように見えます。
けれども、神について考える場合には、そうした思考の内在主義とは手を切る必要があることは、いうまでもありません。ニーチェもドゥルーズも偉大な哲学者でしたが、この点については、彼らにはっきりと疑問を投げかけなければならないのではないかと思います。
「わたしの思考のうちにおさまりきらないもの、それどころか、この世には決して属しえないもの。」絶対的外部性という概念は、ひとつの試みにすぎません。神の問いについて考えるためには、ほかの方面からも事態を掘りさげてゆく必要があるでしょう。