彼らは、「苦しみや死から人間を救うことができるのは、人間を超えた存在でしかありえない!」と信じ、その信仰に一生をささげつくした人たちでした。彼らが信じたのは「阿弥陀仏」と呼ばれる存在ですが、その存在は、現代を生きる私たちの言葉でいえば、むしろ、「神」という言葉で指し示されるものに近いのではないかと思います。
慈愛の光に満ちている、死後に人間を救ってくれる存在。それは、個々の人間から離れたところに存在している人格的な存在です。
こういう思想は、仏教のうちではかなり特異なもので、法然や親鸞の思想は、仏教の歴史から生まれ出てきたある種のアノマリーであるともいえる。僕は彼らのことを、「弱さと神の問い」の偉大な先駆者として位置づけたいと考えています。
もちろん、こうした考えにたいしては、少なからず批判もあることでしょう。その一方で、法然や親鸞の思想を神の問いに接続させることで、この国がたどってきた精神史を、今までとは別なふうに眺めることができるというメリットもあります。
この国には一神教的な信仰の伝統がないとは、よく言われることです。その一方で、法然や親鸞、それから、彼らに引きつづいて現れた無数の信徒たちは、この世を超えたところにいる他者への信仰に、文字どおり命を賭けていました。
その点からいうと、少なくとも死後の救いをもたらす超越的な他者への信仰という点については、この国には800年以上の歴史があるということになります。「神の問いは、この国の精神の歴史を、もう一度、根底的なところから生きなおすことにもつながっている。」問題含みの表現であることは確かですが、今日は、これを結論としておくことにします。