イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

神話の導入

 
 神の存在を認めないことを哲学の原罪と呼ぶとするならば、ここから、哲学という営みそのものの目的が見えてきます。またしても結論から先に言うかたちになってしまいますが、今回のシリーズは、このスタイルでゆきたいと思います。
 
 
 哲学の目的、それは、神のもとに帰還することなのではないか。このことを、ある種の神話のようなかたちで言い表すならば、次のようになるでしょう。
 
 
 思考はもともと、神につながる本質をもっていました。神とは、生きている神であり、人格をもった存在です。神は、この世界のうちに見えるものとして存在しているわけではありませんが、思考は本来、この見えざる存在のことを、いわば直観することができます。
 
 
 けれども、この世界で生きることになったとき、思考のうちには罪が入りこみました。この原罪ともいうべきものによって、思考は、神につながることができなくなりました。
 
 
 
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 思考はいまや、神のもとから分離されて、自分以外のものの存在を認めようとしません。
 
 
 「存在するもの、それは私だけだ!」思考はこうして、内在の思考になってしまいました。罪のもとでは、来たるべき哲学は内在の哲学だということになるでしょう。
 
 
 20世紀の後半には、この傾向が一つのリミットを迎えていたように思います。それはおそらく、人間たちの中で「神は死んだ」という言葉が当たり前のものとして受けいれられることによって、思考が抱えこんでいた原罪に歯止めがきかなくなったからです。
 
 
 さて、この神話のもとでは、次のように言うことができそうです。「哲学の目的、それは、思考が罪のもとから解放されて、生きている神のもとへと帰還することである。」もう少し、このことの帰結を探ってみることにします。