イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

内在から超越へ

 
 もう少し前回の神話にしたがって、その帰結を追ってみることにします。
 
 
 思考はもともと生きている神とつながっていましたが、原罪が思考のうちに入りこむことによって、神から分離されてしまいました。こうして、思考は自分自身のうちに閉じこめられることになりました。
 
 
 ここからすでに何度か触れた、思考の内在主義ともいうべき態度が出てくることになります。これは、思考それ自身の自由を謳歌しているように見えて、かえって、内在の閉塞という事態を引きおこしています。
 
 
 「なんでも考えることができるけれども、どんな思考にも意味がない。」おそらく、現代の思考はこの呪いに取り憑かれています。今や、きわめて深いところに根をもつニヒリズムが、世界においても哲学においても、ますますその支配を広げつつあるように見えます。
 
 
 哲学はいま、内在から超越への転回を必要としているのではないか。思考は、内在の可能性を突きつめることによって、かえってその限界をあらわにしています。内在の閉塞の果てに、その閉塞を一気に突きぬけてゆく可能性が開かれるということが、ありうるのではないか。
 
 
 
哲学 内在 超越 原罪 神
 
 
 
 20世紀の哲学が「現象」や「内在」といった圏域のうちで思考していたとするならば、これからの哲学は「超越」という圏域に取り組んでゆくべきではないかと思います。
 
 
 「それでは、超越とは何か。」思考が、この世を超えるもののほうへ向かうことです。「なるほど。それでは、この世を超えるものとは何か。」色々なものごとについて考えられますが、まずもって、生きている神のことが考えられます。
 
 
 「しかし、神というのは、あまりにも話が極端すぎるのではないか。哲学は、もう少し落ちついたところで議論を進めるべきではないか。」
 
 
 こうした反論は、もっともなものです。けれども、哲学者としては、ひとたび問いを立ててしまったら覚悟を決めて、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、ひたすら走りぬくしかありません。上のような批判は甘んじて受けることにして、超越の問いを、ただひたすらラディカルに追いかけてみることにします。