イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学の最終地点

 
 「人間はこの世の鍛錬をとおして、みずからの心を原初の状態に立ちもどらせてゆく。」こうして私たちは、私たちの神話の結末にたどりつくことになります。哲学者の欲望という観点から、事態を眺めてみることにしましょう。
 
 
 心のうちに原罪が入りこむことによって、人間はさまざまな欲望に突き動かされることになりましたが、生きている神に触れることは、そうした欲望から解き放たれてゆくことでもあります。人間はこうして、いわば、終わることのない浄化のプロセスに入ってゆきます。
 
 
 さて、このプロセスが終わる瞬間を想定してみることにします。こうした瞬間はこの現実の世界においてはけっして完全なかたちでは実現しませんが、神話のうちでなら、そういうこともありうるでしょう。
 
 
 欲望が完全に消え去った人間は、純粋な無ともいうべき心の状態にたどりつきます。かれは、もう何も望まず、何ものにもとらわれることがありません。かれはいわば、ついにこの世を乗り越えてしまったのだということもできるかもしれません。
 
 
 こうして、かれははじめて、本当の意味で生きている神と対面することになります。かれの望みは、神がかれに望んでいることを行うことにほかなりません。人間の望みは、神の望みと一致することができるようになるでしょう。
 
 
 
神話 心 原罪 欲望 哲学
 
 
 
 もちろん、これは神話にすぎません。けれども、僕は、哲学者がたどる道のりは、究極的にはこの神話のうちに集約されるのではないかと考えています。
 
 
 「生きている神のもとから生まれ、そこから決定的に分離されたのち、はてしない知恵の探求をへて、ついに神のもとに帰還すること。そうして、神が望むことをそのまま行うことのできる人間になること。」
 
 
 今の時代にこうした言葉がどれほどの説得力を持ちうるのか、僕には、正直にいって自信がありません。神話の論理を追ってゆくと、どうも、そういうことになりそうですが……。
 
 
 けれども、今の僕にとっては、「これこそが哲学者のたどる道のりだ」といえるような答えが、上に書いたようなことのうちにあるように思われるというのも確かです。さらなる答えを求めて、これからもさまざまな人と対話してゆこうと思います。