イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

この世にいつも欠けているもの

 
 心の原初にまでたどりついた哲学者は、ついに、みずからの欲望がいまや完全な無になったことに気づきます。それと同時に、神という他者のなかの他者が、かれの前に現れることになる。
 
 
 かれは神のことを、いずれ顔と顔を合わせて目にすることになるでしょうが、それはおそらく、かれがこの世を去ったのちのことです。それでも、かれには、鏡におぼろに映すようにして、神の顔が見えているのだといえるかもしれません。
 
 
 「わたしがこれまでずっと求めつづけてきたもの、それは……。」かれは、それは真理だと思ったこともありました。それは、真理のように抽象的なものではなくて、なんの曇りもなく愛する人なのではないかと思ったこともありました。
 
 
 最後のときに、かれは二つのものが一致することに気づきます。真理そのものであり、あなたそのものでもあるような、わたしが望むことのリミット。わたしはそこから生まれてきたが、いずれ体は朽ち果てて、そこに帰ってゆくだろう。その時には、わたしははっきりと見るだろう。
 
 
 考えることは、神にたいする呼びかけになるでしょう。その呼び声は、最後には言葉にならない言葉となって、ただあなたのことを求めつづけます。終わることのないこの呼びかけは、人間たちのあいだでは祈りと呼ばれています。
 
 
 
哲学 神 祈り
 
 
 
 祈りは、この世界からはつねにすでに欠けています。それは、ある本が語っているように、私たちが肉から生まれてきたからなのかもしれません。
 
 
 誰にもどうにもならないことですが、私たちは絶えることなく憎みあい、殺しあっています。生きることは、殺しながらこの世にとどまりつづけることに他なりません。
 
 
 ある本がずっと昔から語り続けているように、それでも人間は、この世にいつも欠けているものを求めつづけることをやめません。おそらく、哲学をすることも、この果てしない営みの一部なのでしょう。僕は、ささやかなものだけが最後のところで人間を救いうるのではないかと思います。
 
 
 
 
 
 
[今日から、助手のピノコくんと一緒に、ツアーでアウシュヴィッツに行ってきます。コメントをいただいた場合に返すのが遅くなってしまうかもしれませんが、更新は予定どおり続けますので、よろしくお願いします。]