前回までの議論に、すこし補足しておくことにします。
「神が、私たちのひとりひとりを愛している。」このことがもしも正しいとしたら、ここからただちにひとつの帰結が導かれます。
それは、「神の愛は、まだこの世において隠れたままになっている」ということです。これはいわば、莫大な宝が存在しているにもかかわらず、人間がまだそれが存在していることに気づいていないといった状態に近いといえるかもしれません。
真理のことを、隠れているものをあらわにする働きという観点からみるならば、神の愛こそは、まさに哲学者が全力をあげて明るみに出すことにつとめるべきものなのではないか。
この、隠れているものをあらわにする働きのことを、マルティン・ハイデッガーはアレーテイアと呼んでいましたが、僕はアレーテイアの働きが行われる領域を超越の圏域にまで押しひろげて、天上の愛にまで広げて捉えてみてもよいのではないかと考えています。
「妄想もここに極まれり、といったところか。」確かに、もしも神が存在しないとしたら、これほど愚かなことはないと言えそうです。その場合、僕は、この世で最も思慮の足りない哲学者であるということになるでしょう。
けれども、もしも神が存在するとしたら。神の愛が、哲学者が最後に見いだすべきものとして、これまでずっと隠されつづけていたのだとしたら、どうでしょうか。
さて、今のこの時代のことを、考えてみます。哲学が停滞し、芸術が凋落し、文化がゆるやかに閉塞してゆく。おそらく、今はある種の終わりの時代です。
けれども、終わりの時代だからこそできる哲学もあるのではないか。「神の愛は、最もよく隠されたものとして、私たちのことを待ちつづけているのではないか。」今日は、これを結論にしておくことにします。