前回の記事で用いた「終わりの時代」という表現について、より詳しく掘り下げてみることにします。
「生きることのよさを目ざして考えること。」哲学をこのように定義するならば、哲学は時代の流れとは無関係なものであるようにも見えますが、どうも、実情はそうなっていないようです。
むしろ、本質的な哲学者であればあるほど、かれが生きている時代に深いところで向きあう運命にあるように思われます。試みに、三人ほど例をあげてみることにします。
ソクラテスは、古代ギリシアのポリスの衰退が決定的なものになるころに、アテナイで活動しました。かれは、自らの生き方によってゆるやかな滅びに向かってゆくアテナイ人たちに、「魂のよさを求めて生きる哲学者」という生のヴィジョンを提示しました。
けれども、それを単にギリシア的なものを堕落させたという風に見るのは、間違っているのではないかという気がします。
むしろ、ソクラテスは、人びとの目を魂のよさに向けさせることによって、見るということをかくも愛していたギリシア人たちの運命を完成させたのではないか。
ソクラテスは同時代人たちに、次のように言ったのではないでしょうか。「見よ。君たちは、天や地のさまざまなものごとや、人間の肉体の美しさを眺めることを、何よりも好んでいる。それならば、それよりもずっと高貴であり美しいものである人間の魂に、なぜ目を向けないのか。」
書いていたら、どうにも止まらなくなってしまいました。もう少し、ソクラテスについて考えてみることにします。