哲学にたいするデカルトの貢献の中で最も大きなものは、いうまでもなくコギトの発見でしょう。今日は、この点のみに話をしぼって考えてみることにします。
わたしはすべてのものごとを疑うことができるが、疑っているわたしそのものの存在については疑うことができない。言われてみれば誰にでもわかるこの真理を歴史上はじめて打ち立てたのは、近世という時代の哲学のあり方をほとんど独力で決定づけてしまった、一人の勇敢な知の武人でした。
前世紀には、フッサールという人が、デカルトのこの発見に新たな命を吹きこみました。個人的には、フッサールがデカルトにならって成し遂げたことは、彼ののちに出たハイデッガーには決して回収されないものを含んでいるのではないかと思います。
この点については、いずれこのブログでも詳しく取りあげたいと思いますが、デカルトのコギトの発見には、やはり永遠の価値があるといわざるをえないのではないか。
中世イスラーム圏のイブン・スィーナーという人が、例の「空中浮遊人間」についての思考実験のなかで、デカルトのコギトと同じ発見をしているとのことですが、コギトを哲学の第一原理に仕上げたのは、やはりデカルトの功績なのではないかと思います。
そして、彼の発見のうちには、彼自身が近世という時代と他の誰よりも鋭く向きあったことのしるしを見てとれるのではないか。
近世の人びとは、人間が見いだすことのできる真理が数学のようにリジッドな構造を持っているということを、はじめて深く自覚した人びとでした。古代や中世の人びとがうっすらと気づいていたことを、ついに絶対的な明証性とともに認識するにいたったわけです。
デカルトのコギトのうちには、この絶対的明証性の光がさんぜんと輝いています。この現代という時代において魂の次元にふたたび目を向けようとするなら、彼の省察に立ち戻ることが必要なのではないか。デカルトの哲学は、人間は考えることによって絶対に動かしえないものに達することができるはずだという勇気を、私たちに与えてくれています。