イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

青春の終わり、哲学のはじまり

 
 哲学者はかつて、力能や差異について考えていました。かれにとっては、何かを強く追いもとめること、欲望するということが、なにかとても神聖なことのように見えることもありました。
 
 
 純粋なまなざしのもとで眺めるとき、世界はかぎりなく透明で無垢な姿をたもっている。かれには世界が、まるですべての出来事が無限にくり返されるとでもいったような、まじりけのない喜びに満ちた生のあり方を指し示しているように見えたものでした。
 
 
 けれども、かれが死ぬということの意味を本当に知ったとき、すべてのものがその表情を変えました。
 
 
 「もしも死ぬことがすべての終わりだとするならば、生きていることに意味などあるのだろうか。」生まれること、老いること、病むこと、そして死ぬことの苦しみが、いまや、かれに重くのしかかかってきます。
 
 
 しかし、本当は青春の終わりこそ、哲学者がついに自分のなすべきことに取りかかりはじめる時なのかもしれません。かれは何度も打ちのめされましたが、それでもまだ生きて、残された時間を、この世での自分のつとめを果たすことに向けはじめています。
 
 
 
哲学 死 青春の終わり
 
 
 
 「自由な人ほど、死について考えることが少ない。」ある哲学者はかつて、このように言いました。僕は彼のことをとても尊敬していますが、この言葉については、「それは違うのではないか」と言いたくなる気持ちを押しとどめることができません。
 
 
 本当の意味で何ものにもとらわれずに生きようとする時、人間は、みずからの死について問わずにはいられないのではないか。
 
 
 けれども、ひょっとすると、その哲学者が言いたかったことも、それと同じことだったのかもしれません。彼は、若くして病気で死にました。彼は生涯をかけて、死を超えてとどまりつづけるもの、永遠なるものを追いもとめつづけました。
 
 
 哲学の価値は、それが死ぬことにたいしてどのように答えるのかで決まるといえるのかもしれません。僕にあとどれくらいの時間が残されているのかはわかりませんが、とりあえず、ようやく出発点に立つことだけはできたようです。