イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

悟りの道

 
 人間はおそらく、死が完全な無を意味するということには耐えることができません。哲学者や宗教者たちは、これとは違った答えを求めて探求をつづけてきました。
 
 
 さて、細部をすべて切り捨てて、事柄の本質だけを抜きとってくるならば、彼らの探求の多くは、ある共通の主張に行きつくのではないかと思います。
 
 
 その主張とは、次のようなものです。「わたしはいつか死ぬ。しかし、わたしを超える、ある永遠なるものが存在していて、わたしが存在しなくなったのちにも、そのものは存在しつづける。」
 
 
 この主張にはさらに、次のような主張が付け加えられるのがふつうです。「じつは、わたしという存在は、真の意味においては存在するものではない。存在していると言えるのはただ、永遠なるものをおいて他にない。
 
 
 永遠なるものとは、一なるものであり、分割不可能なものである。そして、わたしは存在しないのだが、もし『わたしは存在する』と強いて言うとするならば、わたしとはそれなのだ。」
 
 
 私たちは、こうしたものの見方を悟りの道と呼ぶことにしましょう。この呼び方の由来については、後ほどあらためて説明することにしたいと思います。
 
 
 
死 哲学 悟りの道 パルメニデス プロティノス 仏教 ブッダ アートマン ブラフマン
 
 
 
 ふつうの人にはにわかに受け入れがたい主張ですが、先に述べたように、悟りの道を歩む探求者たちの考え方は、世界のあらゆる時代と地域に共通するものです。試みに、ここで少しだけ永遠なるものの例を挙げてみることにしましょう。
 
 
 パルメニデスの〈存在〉。プロティノスの〈一者〉。古代インドの賢者たちは、このものをブラフマンアートマンと呼んでいました。仏教徒たちはこういうものの存在をなかなかダイレクトには認めようとしませんし、ブッダ本人は固く沈黙を保っていたようですが、彼らの中には、曖昧さと共にではあれ、この永遠なるものについて語る人びともいます。
 
 
 私たちの時代に近いところでは、スピノザヘーゲルといった哲学者たちが、この考え方にしたがって自らの哲学体系を作りあげました。彼らは、このものを神や実体と呼びましたが、これはもっぱら概念的で、非人格的な存在のことを指しています。
 
 
 さて、悟りの道という考え方は、死の問題にたいする満足な答えになりうるでしょうか。最初に言っておくと、僕は、この道は部分的な真実を含んではいても、決定的な解答にはなりえないと考えていますが、すでに字数が尽きてしまったので、次回から考えてみることにします。