イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

純粋なまなざし

 
 「わたしはそれだ。永遠なるものだ。」探求者は概念と直観によって、悟りの道の終わりにたどりつきます。それは、まるで閃光のようにして、時を超えるものの認識(「グノーシス」)が輝きだす瞬間です。
 
 
 「本当にそんなことが、ありうるのだろうか。」それは、私たちのような普通の人間からすると想像しがたいものであると言わざるをえません。けれども、私たちにも、その論理を追ってみることくらいならどうにかできそうです。
 
 
 探求者は今や、彼自身の肉の目によってではなく、永遠なるもののまなざしの側から、すべてのものをいわば知的に直観します。このまなざしは、いわば概念による概念のまなざしであり、同時に、事物のエッセンスを直知させるイデアルなまなざしです。
 
 
 悟りの道においては、多くの場合、このことの結果として死は乗り越えられるとされています。肉体を持ったわたしは、いずれ死ぬでしょう。しかし、それは死にません。それである本当のわたしは、決して消滅することがないでしょう。
 
 
 
グノーシス 悟りの道 プルースト 失われた時を求めて ウパニシャッド 神秘
 
 
 
 悟りの道は、西洋にも東洋にも共通してみられる普遍的な論理構造をそなえています。それは、わたしがわたしであることを超えて、ある純粋なまなざしになることであるということもできるかもしれません。
 
 
 マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』などを読んでいると、文学という営みも、究極的にはこの純粋なまなざしの欲望に突き動かされているのではないかと思えてきます。この欲望と芸術との結びつきについてシャープな考察を残した先人としては、ショーペンハウアーの名前を忘れることはできません。
 
 
 神秘と言われれば、神秘そのものでしかありえない道です。こうした道を通って、それを真理だと確信した人びとが世界中に無数にいたという事実が、とても不思議なことのように感じられます。
 
 
 けれども、たとえばウパニシャッドの哲人ならば、私たちに向かって次のように言うかもしれません。「死を乗り越えたいのだろう?それならば、お前はこの世を超えるのだ。神秘の道に入るほかに、そのことをどのようにしてなしえようか。」