イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

永遠なるもののあいまいさ

 
 「永遠なるものの純粋なまなざしとなって、すべてを知的に直観すること。」悟りの道の終着点にたどりついた探求者は、これで死を乗り越えることができたのでしょうか。
 
 
 確かに、そのようにも見えます。けれども、その一方で、ここには決して無視できないあいまいさが付きまとっているのではないか。
 
 
 悟りの道の終着点には、あいまいなところは少しもありません。〈一なるもの〉、〈存在〉、〈実体〉。それを何と呼ぼうとも、僕は、人間がこの永遠なるものについて語ることには、十分な根拠があると考えています。
 
 
 けれども、ここでは、わたしはどうなってしまったのでしょうか。わたしは本当は存在しないものとして、消え去ってしまったのでしょうか。それとも、わたしは今や肉体をともなうわたしのレヴェルを超えて、概念と直観によってのみ到達できる本当のわたしに移行したのでしょうか。
 
 
 悟りの道においては、わたしの存在論的なステータスがあいまいなままにとどまっているように見えます。けれども、あいまいさが頂点に達するのは、他でもない死の瞬間です。
 
 
 
悟りの道 永遠 死 コギト 場所 様態
 
 
 
 悟りにいたった探求者が死ぬとき、いったい何が起こるのでしょうか。「死は恐るるに足りない」と、賢者はいいます。それではかれの意識は死の決定的な瞬間ののちに、どうなってしまうのでしょうか。
 
 
 「死なるものは、存在しない。」なるほど。それでは、永遠の相のもとに事物を眺めている、そのあなたの意識は。
 
 
 コギトと呼ぶか、場所と呼ぶか、様態と呼ぶかは、それほど大きな問題ではありません。死を乗り越えたはずのあなた、そのあなたがそこから見ているはずのそれ、わたしには決して体験できないあなたの世界は、死ののちにもそのまま続くのでしょうか。
 
 
 悟りの道においては、こうした点があいまいになってしまうことは避けがたいように見えます。要するに、「意識は死後も存在しつづけるのか」という問いに、悟りの道はしっかりと答えることができないのではないか。
 
 
 このように、死の問題にかんして悟りの道がアポリアに突き当たることは、否定できないように思われます。ひょっとすると、僕が何かとてつもない思い違いをしている可能性も捨てきれませんが、とりあえず、次回で自分の立場を明らかにしておくことにします。