イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

救いの道へ

 
 悟りの道による解決をあきらめながら、それでも死とともにわたしが消滅することに耐えられないとするなら、もう一つしか道はありません。それは、わたしではない他者に、死後の救いを求めることです。
 
 
 この道を、救いの道と呼ぶことにしましょう。この道は、永遠なるものではなく、絶対的に他なるものに自らの存在を委ねてゆく道にほかなりません。
 
 
 すでに探求者は、概念と直観によって、すなわち、自らの行為によって死を乗り越えることを完全にあきらめました。かれには今や、絶対的に他なるものからの贈与に賭けることしか残されていません。
 
 
 この贈与には、それが確実に行われるという保証はまったくありません。けれども、かれには、この贈与の可能性を除くならば、まったくの虚無が待っているのみです。
 
 
 この贈与は、命そのものの贈与です。それも、肉体の死を越えたところにある、この世を超える命の贈与だといってもいい。
 
 
 神以外に、いったい誰がこの命をわたしに贈ることができるでしょうか。わたしが行うのではなく、あなたが救ってくれることをただ信じること。これが、救いの道が提示している可能性です。
 
 
 
悟りの道 絶対的に他なるもの 死 要請 カント 贈与
 
 
 
 注意しておきたいのは、かれにはもう、他の道はないということです。死後の無を拒否し、悟りの道をも退けるならば、死を乗り越えるために、神からの救いに賭けるしかない。
 
 
 文脈は異なりますが、カントはこの「そうするしかない」というロジックのことを、とてもうまく表現しています。カントは、人間は神の存在を「要請する」というのです。
 
 
 要請といえますが、これは命を賭けた懇願であり、あらゆる力をこめた呼びかけです。そこには、要請する人間の実存のすべてがかかっているからです。
 
 
 僕は、究極のところでは、この救いの道こそが人間を死への恐れから完全に救ってくれるものなのではないかと考えています。絶対的に他なるものに依り頼むとはいかなることであるのか、これからもう少しくわしく探ってみることにします。