イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

絶対的に他なるもの

 
 概念と直観によってたどりつく永遠なるものにおいては、自己性と他者性が混在しています。このものは、わたしを超えているのと同時に、わたしの刻印をいくぶんか帯びているといえる。
 
 
 「そうではない。わたしとは幻想であり、永遠なるものは、わたしとは何の関係も持たないものだ。」なるほど。けれども、永遠なるものの純粋なまなざしは、誰のまなざしなのでしょうか。
 
 
 コギトから自己性が消えることが、本当にありうるのでしょうか。永遠なるものは、いわば、自己性がわたしの側から浸透してくるのを止められないと言えるかもしれません。
 
 
 この点については、たとえば、古代インドのウパニシャッド哲学においては、真実在が「われ(アートマン)」と呼ばれていることや、ヘーゲルの哲学が、わたしをめぐる対立項のペアー(即自ー対自)に大きく依拠していることなどが、ただちに想起されます。
 
 
 これにたいして、救いの道における他なるものは、自己性の影をまったくとどめていません。このブログでは以前の記事において、このモメントのことを、絶対的外部性という言葉によって指摘したことがあります。
 
 
 
ウパニシャッド哲学 コギト インド レヴィナス ヘーゲル アートマン
 
 
 
 生きている神は、けっして、わたしの概念にも直観にもおさまりきることがありません。たとえ、わたしが存在しないとしても、神は依然として存在することをやめないでしょう。
 
 
 「神は、信じるものの心のうちにしか存在しないのではないか。」その可能性は、哲学的にはけっして否定することができませんが、もしも神が存在するとしたら、わたしと神の存在論的な順序は逆転します。その場合には、もはやわたしが神のことを想像するのではなく、神のことを想像するわたしの方が、神によって創造されたことになるからです。
 
 
 神による創造については、いずれ改めて論じることにして、本題に戻ります。僕は、救いの道と生きている神については、他者性というモメントを考えることが欠かせないのではないかと考えています。
 
 
 エマニュエル・レヴィナス以降の哲学を追いもとめる私たちは、他者性にもとづく形而上学のようなものを構想することができるのではないか。引きつづき、救いの道が示す方向に向かって進んでみることにします。