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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

呼びかけの瞬間

ひとは死んだらどうなるのか 哲学
 
 救いの道は、死を前にしたわたしが、救いの可能性を呼び求めるところからはじまります。
 
 
 概念や直観の次元とはことなり、呼び求め、あるいは呼びかけの次元は、哲学によって扱われることがあまりありません。それはおそらく、この次元が、人間の生の最もプリミティヴなレベルに属しているからです。
 
 
 もはや、わたしがわたしのままでありつづけることさえも危うくなるような、決定的な瞬間、わたしのうちに潜在していた弱さがむき出しになる時には、わたしはもう、自己性のうちにとどまりつづけることができません。
 
 
 それは、世界のうちで安定した位置を得ていたはずのわたしが、ふたたび幼子のような無力さのうちに叩き落される瞬間であるといえます。
 
 
 この時、わたしにはもう、他なるものに向かって呼びかけることしか残されていません。それは、たとえ誰も救ってくれないとしても、呼びかけをやめてしまうならば、死という永遠の暗黒が待ちもうけているのみだからです。
 
 
 この世で人間が置かれている状況は、本当はそれくらいに惨めなものなのではないか。何でもないふりをしていても、死が人間にたいして圧倒的な力をふるうということは、おそらくは誰にも否定できないのではないかと思います。
 
 
 
概念 直観 救いの道 死 愛
 
 
 
 もちろん、わたしのこの呼びかけにたいして、救いをもたらすことのできる人間は、この世には存在しません。
 
 
 「あなたを助けたいけれど、あなたが今ここで死んでゆくことは、わたしにはどうすることもできない。」わたしの愛する人でさえも、最後のところでは、わたしにそう言わざるをえません。
 
 
 それは、愛する人もわたしと同じように、死にたいしては何の力も持っていないからです。
 
 
 「わたしが死ぬとしても、いつかまた、どこかであなたに会いたい。」ひょっとすると、わたしが愛する人とかわす約束は、わたしの想像を超えるところで、本当に実現されることになるかもしれません。
 
 
 けれども、わたしはその前に、死のもとにたった一人でおもむかなくてはなりません。それは、マルティン・ハイデッガーも言うように、この世の誰も、このことをわたしに代わって引き受けてくれる人はいないからです。