わたしがわたし自身にたいして絶望しきって、生きている神に呼びかけるとき、根本的な転換が起こり、わたしは生まれてはじめて、本当の意味で神に出会うことになります。
これは、ある種の恐れとおののきを伴わずにはいない瞬間です。なぜなら、わたし自身がまったく想像すらしていなかった他者がわたしの前に現れ、わたしが今まで呼びかけつづけていたのは、その絶対的な他者に他ならなかったことに気づく瞬間だからです。
神は、わたしの呼びかけに応えるようにして現れますが、ある意味で、わたしを超えるところから現れるともいえる。呼びかけていたはずのわたしが神によって呼びかけられていたという逆説が、ここには成立しています。
「あなたが呼びかけたからこそ、わたしが呼びかけたのか。」この他者はおそらく、これまでもずっと無意識のうちでわたしに呼びかけつづけていました。この呼びかけは、わたしの内なる原罪によって、わたしの耳には入ってくることがありませんでした。
死を前にしたわたしが叫ぶのと同時に、この他者からの呼びかけがわたしに聞こえるようになります。神からのこの無言の呼びかけは、わたしが神に向かって呼びかけるよりもずっと前、わたしが母の胎の中でかたちづくられる前から、心のうちで鳴り響いていた声にほかなりません。
デカルトとカントはともに、神のイデーなるものは、わたしの心のうちにもともと宿っているのではないかと考えていました。神のイデーは、いかなる経験よりも前に、コギトのうちに刻印のようにして植えつけられたものであると、彼らは考えたわけです。
僕は、それよりももう少し先まで思考を進めて、次のように考えたい。わたしの心は、奥の奥、無意識の底のほうにまで降りてゆくと、わたしの外部につながっている。それというのも、無意識とは、超越への通路にほかならないからだ。
生きている神は心の最深部から、つねにわたしに向かって呼びかけつづけている。わたしが呼びかけるときに出会う他者とは、わたしよりも古く、わたしを超えたところからわたしを成り立たせている絶対的な他者にほかならない……。
この他者についてどのように思索するかが、すべての鍵を握っています。もう少し、この点について詳しく掘りさげてみることにします。