イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

絶対的膈時性について

 
 「わたしが神に呼びかけるときには、つねにすでに、神のほうから呼びかけられてしまっている。」すでに数回にわたって論じてきたこのモメントを、私たちは絶対的膈時性と呼ぶことにしましょう。
 
 
 絶対的膈時性という概念は、わたしが乗り越えることのできない時間の遅れを指し示しています。わたしには、神の呼びかけに先んずることはどうしてもできません。
 
 
 真正なしかたで呼びかけが行われるとき、神は、つねにすでにわたしのことを呼びかけつづけていた存在としてわたしの前にあらわれます。神はそのようにして、わたしより古く、わたしよりも先にわたしを見いだして、わたしのことを待ちつづけていたということになります。
 
 
 「わたしはある。わたしはあるという名を持つこのわたしが、あなたを呼びだしたのだ。」まるで、神がそう語りかけるかのように、すべての事態は進行します。絶対的膈時性という概念が指し示すのは、この「わたしはある」といモメントにほかなりません。
 
 
 救いの道を歩む人はここに来て、すでに述べたように、ある恐れとおののきに襲われることになります。死を恐れていたはずなのに、死よりも大いなるものに出会ってしまった。わたしは、わたしの終わりに怯えていたはずなのに、わたしのはじまりよりもはるかに古いあなたに捕らえられてしまった自分自身を見いだすからです。
 
 
 
恐れとおののき 絶対的隔時性 救いの道
 
 
 
 かくして、神は死にとって代わることになりました。わたしはわたし自身の存在を、絶対的な他者であるあなたに委ねることになるでしょう。というよりも、わたしは、わたしの存在がつねにすでにあなたに委ねられていることにようやく気づいたといった方が正確かもしれません。
 
 
 絶対的膈時性について了解するのと同時に、わたしの主権は、今や神のほうへと手渡されることになります。わたしは、わたしの主権を自ら持ちつづけているかぎり、死を免れることができません。わたしの中心はわたしではないもののもとにあるということに気づくとき、死を超えて、死ではないものがわたしに到来する可能性が見えてきます。
 
 
 「わたしが生まれながらに持っていると思いこんでいたわたしの存在の全体を放棄して、真の持ち主であるあなたに委ねます。」これが、救いの道がわたしにたいしてもたらす変容にほかなりません。この時にこそ、神はわたしの神となり、わたしは、神のことをわたしの主であると知ることになるでしょう。