わたしの主権が絶対的な他者である神に委ねられることによって、救いの道はいよいよ大詰めのフェーズに入ってゆきます。
ひょっとすると、主権というよりも自然権といった方が言葉づかいは正確かもしれません。ホッブズが『リヴァイアサン』において論じていたのと類似したプロセスが、ここでは、わたしの実存のレヴェルにおいて行われることになります。
絶望の果てに自らの存在のすべてを委ねきることによって、神はいまやわたしの主となります。
これは、わたしによる自発的な権利の移譲です。わたしは、死と神のどちらに向きあうか、自分の意思で自由に選択することができるといえる。
さて、わたしは最後の時にいたって、ついに神の愛にのみより頼むことになります。
死を超えて、わたしは救われうるのか。わたしは消滅することなく、死後にも命にあずかることができるのか。こうしたことはすべて、絶対的な他者である神がわたしを愛しているかどうかにかかっています。
救いの道は自己性ではなく他者性に、わたしの認識にではなく、神の愛にすべてを委ねてゆく道です。むしろ、わたしの努力のすべては、この最終項にたどりつくために他のすべてを捨て去ることにあったといってもいい。
これでわたしは、救われたのでしょうか。わたしは、死を免れることができたのでしょうか。ここで、わたし自身には、その答えを出すことができないのは明らかです。どの道を歩むにしろ、人間自身は死にたいしてなんの力も持たないというのが、厳然たる事実なのでしょう。
けれども、ここに一つの事実があります。それは、救いの道を歩んだ人たちが、神の愛がじっさいに存在しているのをその身に感じることがあるということです。
「神が、私たちのひとりひとりを愛している。」このことを、たんなる言葉ではなく、わたしのうちを吹きぬけてゆく命の息づかいのようなものとして、感じとることのできる瞬間がある。ひとが神の存在を自分自身の思いを超えて信じるようになるのは、こうした瞬間にほかなりません。
ここにおいて、哲学はみずからの無力を告白せざるをえなくなります。「ここまできたら、論理と概念を積みあげるのをやめて、ただ、神の愛が吹きぬけるのを待つしかない。」それというのも、最後にことを行うのは、人間の側ではありえないからです。