イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

真なるもの、善なるもの、美なるもの

 
 「哲学の根源を問いなおす。」このことを行うさいには、真なるものと善なるものの関係をめぐるあの古い問いかけが、ふたたび浮上してくることになるのではないかと思います。
 
 
 真なるものが善なるものと切り離されるかたちで追いもとめられているかぎり、哲学は、しだいに単なる論理のゲームと議論による争いに切りつめられてゆきます。こういう状況においては、極論すると「哲学に興味を持つのは、ただ理屈をこねるのが好きな人だけだ」ということになってしまいかねません。
 
 
 しかし、真なるものと善なるもののあいだの関係が修復されるとしたら、どうでしょうか。哲学は、わたしの、人間の、そして、人類全体の生のよさを追いもとめる営みであるということになるでしょう。
 
 
 このような意味においてなら、この世に生きる誰もが生まれながらの哲学者であるということになります。そして、最もすぐれた哲学者とは、最もよい生を送っている人であるということになるでしょう。
 
 
 この観点からすると、学問の言葉で自らの知を言い表しているかどうかは二次的な問題にすぎないと言うこともできるかもしれません。万人が哲学者であるというこのイデーは、大学で行われている栽培の思考だけではなく、生活のただ中で繰り広げられている野生の思考のうちにひらめいている真理にも目を向けるという意味においても、示唆に富むものなのではないかと思います。
 
 
 
哲学の根幹 大学 栽培の思考 野生の思考 真 善 美 芸術
 
 
 
 さて、真なるものと善なるものとくれば、あとは必然的に美なるものがそれに付きしたがうことは、言うまでもありません。美なるものは、ひとが真理と善を目にすることができるところには、必ずその姿を現さずにはいないといえます。
 
 
 芸術は、哲学が豊かに花開くところでは、必ずその伴侶となって真理を導く手助けをしています。プラトンが若いころに芸術家を志していたというのは、まことに哲学の本質にかなったことであるといえるのかもしれません。
 
 
 真なるもの、善なるものそして美なるものをつなぐ結び目について考えることは、あらゆる時代の哲学者のつとめです。
 
 
 「真、善、美をめぐる状況は、今どうなっているのだろうか。」哲学者の役割のひとつは、この三つの輪の結び目のありようと見守りつづけることであるといえるかもしれません。