真なるもの、善なるもの、美なるものをつなぐ結び目は、この現代において、かつてないほどに危機的なしかたで、消失する危険にさらされているようにみえます。
このことを指し示す兆候は、数多くあります。とりわけ、もうずいぶん前にはじまっている芸術の凋落という事態については、いずれきちんと考えておきたいところです。
けれども、結び目が消えかかっていることのしるしは、まずもって、ニヒリズムというかたちで現れているといえるのではないでしょうか。
ニヒリズムについては、私たちは、ニーチェとハイデッガーの思索を忘れることはできません。ここでは彼らの思索を念頭に入れつつ、この事象について、真なるものと善なるものをつなぐ結び目の消失という観点から考えてみることにしたい。
ニヒリズムは、真なるものが善なるものから切り離されて、人間の生を導くというつとめをもはや果たせなくなってしまうところに生まれてくるのではないか。
「真理は存在する。しかし、生きることには何の意味もない。」これが、ニヒリズムの根本気分です。真なるものが厳然としてそびえ立つ一方で、善なるものはこの世から逃げ去ってしまう。
そうなると、美なるものもまた、あらゆる善とのつながりを失い、真理の予感をただ一瞬だけ閃かせるものにすぎないということになってしまいます。「美とは痙攣的なものだろう。それ以外ないだろう」というわけです。
気がついてみると、人類はもう百年以上ものあいだ、このニヒリズムという病に侵されつづけているのではないでしょうか。このことは、何もヨーロッパにかぎったことではなく、たとえば、戦前期のこの国の芸術家たちにとっても、ニヒリズムというイデーのもつ重みは、決して無視できないものであったようです。
今日、人々はニヒリズムなるものについて、前ほど饒舌には語らなくなっているようにみえます。ニヒリズムの根本気分を若さゆえの感傷や愚かさとして片づけてしまおうという傾向も、とりわけこの国においてはますます強まってきているといえるのではないでしょうか。
けれども、実はニヒリズムは、時代の無意識の奥底に、ますます深く根を下ろしつつあるのではないか。現代の世界を作りあげている原理そのものが変わらないかぎり、ニヒリズムはいつでも私たちのもとに回帰してくるのだとしたら。
「すべてのものごとには、意味がないのではないか。」この声は、たった今も私たち自身の心のなかで、ひそかに鳴り響きつづけているように思えます。