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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

不確定性の形而上学へ

哲学 不確定性の形而上学
 
 「私たちには、生きている神が存在するかどうか、理性のみによっては確定することができない。」前回、私たちは、この事態のことを根源的不確定性と呼ぶことにしました。「私たちには、生きている神が存在するかどうか、理性のみによっては確定することができない。」前回、私たちは、この事態のことを根源的不確定性と呼ぶことにしました。
 
 
 現代の思考は、この不確定性の次元を無視して通りすぎてしまうのが一般的ですが、この無視は独断的なものを含んでいます。けれども、この次元に目を向けないことのうちには、事柄自体からくる必然性もあるように思います。
 
 
 哲学はふつう、みずからの無知を告白することを避けようとします。「何が存在するのかさえもわからない」というのは、哲学者にとっては何か恥ずかしいことであるように思えます。
 
 
 だからこそ、哲学者たちは、存在することを確定できないものにかんしては、「そんなものは存在しないのだ」と断言してしまう傾向があります。けれども、あの古いオッカムの剃刀の原則は、僕にはとても危ういものであるように思われます。
 
 
 ソクラテスの「無知の知」。クザーヌスの「学識ある無知」。本来は、カントの批判哲学も、この知恵ある無知という永遠のイデーに新たな命を吹きこもうとして構想されたのではなかったでしょうか。
 
 
 根源的不確定性という概念は、これらの哲学者たちの例にならって、不確定性の次元に私たちの目を向けさせようとします。「私たち人間には、本当は、理性のみによっては何が存在しているのかさえ知ることができない。」これが、時代に関係なく当てはまる人間についての真実であるように思われます。
 
 
 
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 したがって、このブログではもう長いあいだ、「もし生きている神が存在するとしたら」という想定のもとに話を進めてきましたが、本来はその前に、まずこの不確定性について考えておくべきところでした。遅まきながら、これからこの次元について考えてみることにします。
 
 
 形而上学というプログラムの運命については、前世紀にずいぶん話題になりました。その中で、形而上学そのもののの死が喧伝されることにもなりましたが、僕としてはむしろ、形而上学のプログラムがいったんリミットを迎えたようにみえる今の地点においてこそ、不確定性の形而上学のようなものを自由に構想できるのではないかと考えているところです。
 
 
 けれども、こうした企ては不敬虔のそしりを免れないのではないかという疑問については、真剣に受けとめておく必要があります。構想をはじめるにあたって、まずは信仰者として神に祈ることを許してください。
 
 
 「憐れみ深い神よ、わたしはこれから、あなたが存在しない可能性についても考えようとしています。わたしはこのことが哲学のつとめではないかと考えているのですが、そうすることであなたに無礼を働くことになるのではないかと思うと、心が痛みます。
 
 
 あなたは永遠にわたって生きておられますが、人間が哲学を欲するのは、一つには、かれがみずからの理性のみにより頼むという弱さを抱えているからにほかなりません。神よ、われらを憐れみたまえ。アーメン。」