イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

火あぶりは控えよう

 
 本題に戻ります。神という存在について考えはじめると、私たちが生きている世界の姿には、少なくとも二つの可能性があるということになってきます。すなわち、神のいない世界(世界A)と神のいる世界(世界B)です。
 
 
 問題は、私たちには、自分がいるのがAなのか、それともBなのかを確定できないという点にあります。そこでたいていの場合には、どちらかの可能性にたいしてほとんど目を向けないということになります。
 
 
 時代によっては、Aが優勢になる時代もあれば(現代)、Bが支配的であった時代もあります(中世)。そして、どちらの場合にも、マジョリティーのマイノリティーにたいする態度には、かなり独断的かつ強硬なものがあります。
 
 
 たとえば、ヨーロッパ中世には、「神は存在しない」という主張だけではなく、それに結びつきうるあらゆる主張までもが、徹底的に押しこめられました。
 
 
 あまりにも有名すぎる、あのガリレオ・ガリレイのケースや、ジョルダーノ・ブルーノの悲劇などを通して、私たちにも弾圧の具体的な姿はよく知られています。それはすなわち、火あぶりに他なりません。
 
 
 不確定性の次元に目を向けることが、どれほどの困難を引き起こしうるかを、これらの例は示しています。真理のために文字どおり身を焼かれるというのは、並大抵のことではありません。
 
 
 
ガリレオ・ガリレイ ジョルダーノ・ブルーノ 火あぶり 神 異端審問 論理実証主義
 
 
 
 さて、この現代においてはもちろん、これほどに極端なケースはほとんど起こりえません。けれども、こと哲学の世界となると、事態は少しきな臭くなってきます。
 
 
 たとえば、地域や学派にもよりますが、前世紀には、「神が存在する」という主張は、哲学者のうちではほとんど吟味されることがありませんでした。Aがあまりにも強大になるあまり、Bはほとんど論外であるとでもいった趣だったようです。
 
 
 とりわけ、前世紀に盛んになった論理実証主義の思潮などは、どこか、逆向きになった現代の異端審問を思わせるようなところさえあったように思います。現実の火あぶりがなかったことは、言うまでもありませんが……。
 
 
 不確定性の形而上学を追いもとめる私たちとしては、AとBの未決定のうちに、今しばらくはとどまりつづけることにしましょう。「火あぶりは控えよう」を、今日の結論としておくことにします。