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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

欲望と形而上学

 
 しかしながら、ここで注意しておくべきことが一つあります。それは、「未決定にとどめておくことも、ひとつの態度決定に他ならない」ということです。
 
 
 私たちは神の存在について、三つのポジションを取りえます。すなわち、まずは、無神論者のポジション。次に、信仰者のポジション。そして、不可知論者のポジションです。
 
 
 知的な観点からみると、一見、最後のポジションが、真理にたいして最も誠実であるようにみえます。しかし、おそらくはこのポジションも他の二つのポジションと同じく、探求者みずからの欲望なしには探求を行いえません。
 
 
 「真理の探求は、探求者自身の欲望と切り離しえない。」このことを最初に先鋭なかたちで主張したのは、フリードリヒ・ニーチェです。おそらく、彼はそのことによって、形而上学のプログラムを新たな領域に向かって開いたのではないか。
 
 
 この領域とは、欲望の形而上学とでも呼ぶべきディシプリンに他なりません。不確定性から出発して中立的な真理を打ち立てようとする試みは、ここで必然的にアポリアに突き当たることになる。私たちの探求も、ここから次の段階に進むことになります。
 
 
 
無神論者 信仰者 不可知論者 不確定性の形而上学 イデア ニーチェ
 
 
 
 「不確定性の形而上学はみずからの深部に、探求者自身の欲望を発見する。」おそらくは不可知論者でさえ、不可知論者の欲望から逃れることはできません。
 
 
 したがって、仮に異端を焼きつくす火を押さえることはできるにしても、探求者自身のうちで燃えさかる、真理への欲望の炎を消し去ることは決してできないということになるでしょう。形而上学からこの炎を取りのぞくならば、この学自体の生命を奪い去ってしまうことになると言わざるをえないようです。
 
 
 存在論的なスキャンダルであるといえば、言えないこともありません。天上のイデアへとひとを導くのは、地下のリビドーであるということになるのでしょうか。こうした点については、目下のところは慎重に判断をさし控えておくのがよさそうです。
 
 
 私たちはここで、ひとつの選択を迫られることになります。すなわち、「わたしは何を望むのか。」このことの帰結について、もう少し考えてみることにします。