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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

発散する真理

 
 「形而上学は、探求者自身の欲望から離れては成り立ちえない。」もしそうだとすると、ここからは、恐ろしくないわけではない結論が導かれることになります。
 
 
 不確定性は、真実在の不在を意味するわけではありません。「真理は存在するが、人間にはそれを確定することができない。」おそらくは、これがこの世の真実なのではないでしょうか。
 
 
 神についても、同じことが言えます。人間には、無神論者、信仰者、不可知論者という、三つのポジションのいずれかを取ることができます。しかし、神は存在するか存在しないかのいずれかです。
 
 
 最近では、「神はまだ存在しない Dieu n’existe pas encore」という命題が巷をにぎわせているようですが、おそらくは、この二者択一から逃れることは不可能でしょう。このような命題が出てくることについての、哲学史の側からの事情については、いずれ論じてみたいところですが……。
 
 
 本題に戻ります。根源的不確定性の次元が存在しているにもかかわらず、形而上学の探求はそれぞれのポジションに応じて進んでゆかざるをえないところに、本質的なジレンマがあります。そして、神の存在について言うならば、同じ出発点から発した探求者たちの探求は、これら三つのいずれを取るかに応じて、収束することなく、ますます発散してゆくことでしょう。
 
 
 
Dieu n'existe pas encore 形而上学 不確定性 真理 ジル・ドゥルーズ 差異と反復
 
 
 
 上の図では、この事態を視覚的に表現してみました。三つの探求は、根源的不確定性という原点を共有するにしても、まったく異なった方向に向かって進んでゆくことでしょう。
 
 
 真理が収束するのではなく発散してゆくというヴィジョンは、直観からして、私たちにはにわかに受け入れがたいものがあります。それというのも、哲学者たちは、「ひとは、正しく考えるならば正しいイデーにたどりつけるはずだ」という考えに、これまでずっと慣れ親しんできたからにほかなりません。
 
 
 ところが、この考え方自体がひとつドグマにすぎないとしたら、どうでしょうか。
 
 
 実は、ジル・ドゥルーズという哲学者は『差異と反復』という本の第三章において、思考のイマージュという概念を用いつつ、ここで行われている議論に近い議論を展開しています。ここでは、ドゥルーズの議論を直接に援用することはしませんが、これから、彼とは別の方向にむかってこの議論を引きのばしてみることにしたいと思います。