ここでは神の存在に話を限定していますが、欲望と形而上学を切り離すことができないのだとしたら、真理の探求はそれこそ無限に分岐し、無限に発散することになります。
ともあれ、私たちは今や、自らのポジションを決定しなくてはなりません。それぞれのポジションにメリットとデメリットがありそうですが、数えあげているときりがありません。「決断の瞬間は狂気である」とは、こういう場合にこそ当てはまる言葉であるといえそうです。
このブログの筆者の場合、神が存在している方向に賭けるのは、言うまでもありません。さて、こうして信仰のポジションに立つのと同時に、形而上学の最初のフェーズがいったん終わることになります。
僕は、来るべき形而上学は、次の二つのフェーズに分かれるはずだと考えています。形而上学にフェーズがあるというのもなんだか不思議な感じがしますが、僕には、どうも事柄の事情からして、そのようになっていると思われます。
まずは、選択のフェーズ。神の存在について言えば、根源的不確定性にとどまるかぎり、真理の探求は、少なくとも三つの方向に収束することなく発散してゆきます。探求者は、この方向のうちのいずれかを選ぶよう求められます。
次に、信仰のフェーズ。どの方向を選ぶかは探求者の自由ですが、いったん選んでしまった以上は、もう恐れずに先に進んでゆくしかありません。探求者の信仰にしたがって、それぞれの真理を追いもとめることになるでしょう。
最後に注意しておきたいのは、どのポジションを選ぶにしても、探求者にはたゆまぬ信仰が要求されるということです。信仰者が信仰を信仰するのと同様に、無神論者は無神論を信仰し、不可知論者は不可知論を信仰することになる。来るべき不確定性の形而上学は、「ひとは、信じることなしには考えることができない」と私たちに教えることになるでしょう。