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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

ポジションの決定

 
 無神論、信仰、不可知論。根源的不確定性から出発したのち、形而上学の探求はそれぞれのポジションにしたがって分岐し、探求が進むにつれてますます分岐してゆきます。
 
 
 ここでは神の存在に話を限定していますが、欲望と形而上学を切り離すことができないのだとしたら、真理の探求はそれこそ無限に分岐し、無限に発散することになります。
 
 
 そして、それこそが哲学という営みのじっさいの姿なのかもしれません。哲学史はすでに数えきれないほどの形而上学的モデルを提示していますが、これからも、さらに多くのモデルが現れては消えてゆくことでしょう。
 
 
 ともあれ、私たちは今や、自らのポジションを決定しなくてはなりません。それぞれのポジションにメリットとデメリットがありそうですが、数えあげているときりがありません。「決断の瞬間は狂気である」とは、こういう場合にこそ当てはまる言葉であるといえそうです。
 
 
 このブログの筆者の場合、神が存在している方向に賭けるのは、言うまでもありません。さて、こうして信仰のポジションに立つのと同時に、形而上学の最初のフェーズがいったん終わることになります。
 
 
 
無神論 信仰 不可知論 根源的不確定性 形而上学 哲学史
 
 
 
 僕は、来るべき形而上学は、次の二つのフェーズに分かれるはずだと考えています。形而上学にフェーズがあるというのもなんだか不思議な感じがしますが、僕には、どうも事柄の事情からして、そのようになっていると思われます。
 
 
 まずは、選択のフェーズ。神の存在について言えば、根源的不確定性にとどまるかぎり、真理の探求は、少なくとも三つの方向に収束することなく発散してゆきます。探求者は、この方向のうちのいずれかを選ぶよう求められます。
 
 
 次に、信仰のフェーズ。どの方向を選ぶかは探求者の自由ですが、いったん選んでしまった以上は、もう恐れずに先に進んでゆくしかありません。探求者の信仰にしたがって、それぞれの真理を追いもとめることになるでしょう。
 
 
 最後に注意しておきたいのは、どのポジションを選ぶにしても、探求者にはたゆまぬ信仰が要求されるということです。信仰者が信仰を信仰するのと同様に、無神論者は無神論を信仰し、不可知論者は不可知論を信仰することになる。来るべき不確定性の形而上学は、「ひとは、信じることなしには考えることができない」と私たちに教えることになるでしょう。