イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

誰もが、つねにすでに信じている

 
 「ひとは、信じることなしには考えることができない。」今回は、この点についてもう少し考えてみることにします。
 
 
 選択のフェーズと、信仰のフェーズ。理念のうえでは、形而上学をこのように二つのフェーズに分けることができそうですが(「権利問題」)、現実には、どうもそう簡単にはゆかないようです(「事実問題」)。
 
 
 なぜなら、実際には、探求者はつねにすでに神の存在をはじめとするさまざまなトピックについて、特定のポジションを選んでしまっているからです。信仰しつつ選択し、選択したものをふたたび信じ……というのが、思考の現実の姿なのでしょう。
 
 
 私たちは生きているかぎり、何らかの信念を持つことを、それこそ一秒たりともやめることができません。神の存在という目下の問題についても、そのことは同様であるといえます。
 
 
 このあたりについては、デイヴィッド・ヒュームの「信念 belief」についての考察を、形而上学的思考のレヴェルにまで拡張してみるのもよいかもしれません。形而上学にまで習慣の次元が持ちこまれるというのは、それはそれでスキャンダラスかもしれませんが……。
 
 
 いずれにせよ、私たちは今回の探求において、ひとつの帰結にまでたどりつきました。「本当は、誰もが確定できない事柄を信じている。」今回は、このことをとりあえずの結論としておくことにします。
 
 
 
デイヴィッド・ヒューム 権利問題 事実問題 信仰 無神論 不可知論
 
 
 
 無神論を奉じている人のうちには、本当は神の非存在を信じているだけであるにもかかわらず、「自分はただ、むき出しの事実を見ているだけだ」と思いこんでいるケースが少なからずあるように思います。
 
 
 不可知論者となると、自分こそは慎重に判断を差し控えているのだと主張することもできそうですが、判断を差し控えるのが賢明だと信じている時点で、立派に信心深い人びとの仲間入りということになりそうです。
 
 
 最後に、信仰者についてだけは、「信仰者は、自分が信じていることを知っている」といえるのは確かですが、だからといって、自分の信仰が正しいことが理性のみによって証明できるわけではありません。この点からすると、私たちは、「生きるとは信じることだ」とさえ言えるのかもしれません。