さて、「利益のための倫理」というイデーとは、そろそろ手を切ることにしましょう。すでに、さまざまな欠陥が示されていますし、何よりも、利益と倫理という言葉では、あまりにも相性がよくないように思われます。
さて、そうなると、倫理の根拠は、次のような解答のうちに求めるしかなくなってくるのではないでしょうか。
「倫理法則を受け入れるべきであるのは、それが自分の利益に合致するからという理由によるのであってはならない。倫理法則は、まさにそれが倫理法則であるという理由によってのみ受け入れるべきなのだ。」
これはまさに、倫理のための倫理ともいうべき考え方です。この論について、もう少し詳しく見てみることにしましょう。
「あなたは、他者に害を加えてはならない。」この原則は、いつでもどこでも妥当すべきものであるように思われます。倫理的であろうとするならば、たとえ自分の利益に反するとしても、この原則は守らなければなりません。
かりに、他に誰も見ておらず、害を加えられた本人すら気づかないとしても、それでも悪は行うべきではない。そもそも、そういうものの見方こそが、ひとが倫理という言葉を用いるときに想定しているものではないでしょうか。
第一の論においては、実のところ、ひとは利益や合理性というタームでしかものごとを考えていませんでした。この第二の論にいたってはじめて、善や悪という語が私たちのもとに現れてくることになります。
善とは、無条件になすべきもののことであり、悪とは、無条件に避けるべきもののことです。カントは定言命法という言葉を用いていましたが、私たちとしては、もう少しわかりやすい言葉づかいでゆくことにしましょう。
ところで、善と悪という言葉を前にしたとき、私たち現代人は少なからず戸惑ってしまいます。
善も悪も相対的なものにすぎないというのが、バランスの取れたものの見方だったはずだ。成熟した人間は、この世の中に無条件に善や悪であるものなどないということを、とっくに知っているはずではないか……。
けれども、倫理のための倫理というイデーは、こうしたものについて思考するようにと私たちを促しています。これから、無条件的な善と悪なるものにもとづく倫理について、もう少し掘り下げてみることにしましょう。