イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

倫理と超越

 
 「あなたは、悪を行ってはならない。」どうやら、倫理なるものは、たとえ現実がどのようなものであろうとも、みずからの要求を果たすように人間に要求してくるもののようです。
 
 
 この要求はいわば、絶対的なものであるといえます。イデア的なものは、現実のことを考慮してくれません。イデア的なもののうちには、どこか父なるものの厳格さを思わせるところがあるとでも言えるかもしれません。
 
 
 たとえば、「あなたは、殺してはならない。」この場合、人間は、絶対に他の人間を殺害してはいけない。
 
 
 仕方がなかった、ではすまない。死んだ人間はそれに値した、と言ってはならない。あなたが人を殺したなら、あなたは悪を行ったのだ。
 
 
 あなたがなしたことは、言い訳のきかないことだ。「善も悪も相対的なものにすぎない」と、あなたは言うのか。あなたは、何を思い違いしているのではないか。わたし、このわたしは、あなたが行ったことは悪であると、ここで言いわたす。
 
 
 もしも倫理法則が言葉を話すとしたら、上のように言うかもしれません。非常に断定的で、有無を言わさない口調ですが、倫理なるものにそのような側面があることは、どうやら否定できなさそうです。私たち人間としては、ただ、その絶対性の前に戦慄することしかできないように思われます。
 
 
 
倫理法則 悪 イデア
 
 
 
 「利益のための倫理」というイデーにしたがって考えていたときは、ある意味で、とても人間的な世界が開けていました。自分の身の安全のために他者を傷つけないというのは、私たちが理解しやすい考え方であるといえます。
 
 
 これにたいして、ひとたび「倫理のための倫理」の世界に足を踏み入れるや、私たち自身を超え出ているといわざるをえないようなところから、禁止の声が鳴り響いてくるように思います。
 
 
 上にも述べたように、この声は、イデアルなものの領域から聞こえてくるように思われます。すなわち、「たとえ現実がどうであろうとも、あなたは悪を行ってはならない」というものです。
 
 
 おそらく、ひとはここで、超越の次元にすでに触れています。けれども、ここで急ぎ足になってその次元に向かうには、まだその準備が足りないようです。
 
 
 それに、倫理なるものについては、カントという巨大な先人の足跡を無視するわけにはゆきません。私たちは一歩一歩、じっくりと進んでゆくことにしましょう。
 
 
 
 
 
 
[倫理については、愛や赦しの次元について考えることが大切なのは言うまでもありませんが、その前に、まず倫理的なるものの厳格さについて考えておくことも必要であるように思われます。筆者自身の倫理的達成がまことに不十分なので、書いていて自分でも心苦しいところですが、考えられるところまでは考えてみることにします。]