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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

開かれへのベクトル

倫理の根源へ 哲学
 
 「あなたは、他者に害を与えてはならない。」この倫理原則の要求の絶対性については、すでに見ました。ところで、この要求についてはまた、普遍性という性質のことも忘れることができません。
 
 
 倫理法則は、あらゆる他者にたいして守られるべきものです。そこには、いかなる適用の限定もあってはならないように思われます。
 
 
 恋人や友人、家族。そして、共同体や国家。私たちは、さまざまなかたちでつねに他者たちと結びついています。そして、私たちはほとんどそのことを自覚的には意識することのないままに、「われわれ」というタームでものごとを考えています。
 
 
 しかし、倫理はどこまでも、そこから外れている「あなた」や「彼」、「彼女」を同じ人間として迎え入れることを要求します。
 
 
 それまで見も知りもしなかった「あなた」に、決して悪を行わないこと。それは、「われわれ」と「あなた」のあいだに区別を設けずに、ただ互いのことを人間として承認しあうことです。
 
 
 倫理法則は、次のように言います。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。あなたがたは、完全な者になりなさい。
 
 
 
倫理原則 他者 共同体」ベルグソン 道徳と宗教の二源泉
 
 
 
 したがって、倫理法則はあらゆる人間に対して適用されるべきであるということになりますが、この普遍性自体はスタティックなものでありながら、どこまでもダイナミックな拡大のプロセスはここでは要求されているのだということになりそうです。
 
 
 ベルグソンは、晩年の主著である『道徳と宗教の二源泉』において、このプロセスを力づよく描いています。
 
 
 人間はどこまでも、他者とのつながりを押し広げてゆこうとする生命の躍動に突き動かされている。そして、この躍動のうちには、あらゆる閉域を打ち破ってゆく、開かれへのベクトルとでも呼ぶべきものが宿っているといえるのではないか……。
 
 
 本題ではないので、これ以上のことは、彼自身の本をひもといてみることにしてください。
 
 
 倫理の絶対性というイデーには、父のように厳格なところがありましたが、倫理法則の普遍性のうちには、まるで父の命にしたがって忠実につとめを果たす子のような勤勉さがはらまれています。倫理なるものには、人を魂の奥底から突き動かすところがあることは確かなようです。