私たちは、絶対性、普遍性、完全性という倫理法則の性質の三位一体を探っている途中で、完全な愛というイデーに出会いました。
このイデーはとても興味深いものですが、今の目的は倫理の根拠を問うことなので、とりあえず倫理の原則のほうに立ち戻ることにしたいと思います。おそらく、完全な愛については、いずれまた触れる機会がやってくることでしょう。
さて、「他者に害を加えてはならない」という原則については、もう一つのトピックを確認しておく必要があります。そのトピックとは、「倫理は、わたしが自分自身のことを『たんなる人間 Homo tantum』として扱うことを要求する」というものです。
わたしはわたし自身にとって、数ある人間の一人であるだけではなく、そこから世界を眺める視点そのものでもあります。この点からすると、エゴイズムなるものには、いわば確固とした存在論的な基盤が存在しているということにもなる。
ところが、倫理法則を守るさいには、わたしは、わたし自身のこの存在論的な特権性を放棄して、自分のことを「たんなる一人の人」というステータスにまで切り下げなければなりません。すべての人間に適用される倫理法則なるものは、そのようにしてはじめて、問題なく機能することができるようになります。
要するに、「倫理なるものは、誰一人として特別扱いすることはない」ということになります。わたしは、わたしだけは他の人とは違うと宣言することを、倫理によって禁じられるというわけです。
注意しておきたいのは、わたしの存在論的な特権性は、わたしにとって根拠のないものでは決してないということです。わたしにとって、わたしは世界そのものの主人にほかならず、他者たちはわたしの僕(しもべ)であるにすぎないように見えます。
けれども、倫理が要求するのは、わたしが主人であることへの固執を捨てきって、僕の立場をみずから引き受けることです。まるで、すべての人が互いに僕となって仕えあうような世界を目指すよう、倫理法則が人間に向かって呼びかけているかのようです。
したがって、倫理のうちにはこの存在論的なへり下りのモメントが含まれることに、ここで注意しておくことにしましょう。
「わたしとて、たんなる人間の一人にすぎない。」ここには今回の探求にとって、きわめて重要な論点の一つがあるように思います。もう少し、この点について掘りさげて考えてみることにしましょう。