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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

存在論的なへり下りについて

倫理の根源へ 哲学
 
 わたしが、無意識のうちに自分のことを人間以上のものとみなしてしまう危険をつねに抱えていること。また、わたしが、自分でも気づかないところで、わたし以外の人のことを傷つけている可能性がつねに存在しているということ。
 
 
 わたしというものの存在論的な特権性と深く結びついた、こうした事情に気づくとき、わたしは自らを倫理法則に従わせるように決意することになります。
 
 
 今や、わたしは自分自身のことを、たんなる人間の一人とみなします。「人間は、誰もが倫理法則にしたがい、他者に害を与えることを控えるべきだ。」これが、新たなフェーズをしるしづける標語となるでしょう。
 
 
 新しいこの倫理の世界には、主人となる人間は一人もいません。すべての人が、すでに自分が主人であることを放棄したからです。
 
 
 すべての人は今や、僕(しもべ)となります。誰の僕なのでしょうか。あらゆる人が、互いに僕となって仕えあうというふうに表現することもできますが、彼らはまず何よりも、倫理法則の僕です。
 
 
 倫理法則の根源であるあの原則に議論の焦点を合わせるなら、この事態は次のように表現できます。わたしは、自らを「他者に害を与えてはならない」という原則に従属させる。そして、すべての他の人も、おそらくはこれと同じように行うことだろう。
 
 
 
 倫理法則 僕 仏教 空 スピノザ 西田幾多郎 ジャック・ラカン
 
 
 
 わたしの存在論的なステータスに起こる変化を、上の図で表現してみました(作図は助手のピノコくんによる)。わたしの自己性は、今や根本的な位置変更を行うことになります。
 
 
 倫理を受け入れる以前においては、わたしは自らの自己性を、見るものの側においていました。倫理原則を受け入れ、その原則に従属するとき、わたしは自己性を見られるものの側に位置づけることになります。
 
 
 仏教における空の思想、スピノザにおける実体と様態の関係、西田幾多郎における場所の思考、ジャック・ラカンの主体にかんする考察など、じつに数多くのテーマが、倫理以前から倫理へのこの移行のモメントに深くかかわってきます。
 
 
 むしろ、このモメントこそは、哲学が活動する固有の領域であるとさえ言うことができるかもしれません。存在論的なへり下りのモメントは、倫理学の根本的な基礎であるのみならず、あらゆる思弁哲学の中核にかかわっているのではないかと予感されます。