イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

目的の国への呼びかけ

 
 わたし自身が自らの意志にしたがって、倫理法則に従属する。カントはこのことを、意志の自律と呼んでいました。
 
 
 倫理のための倫理というイデーを追いもとめつづけていた私たちの探求は、ここにいたって、『実践理性批判』におけるカントの探求と大きく重なりあうことになります。
 
 
 ただ、これ以降の私たちの進む方向は、カントを参照しつつも、彼とは少し異なることになりそうです。すべてのことについてそのたびごとに彼の主張を吟味することはしませんが、倫理学の領域をほとんど独力で踏破してしまったこの人の知恵には、脱帽せざるをえません。
 
 
 さて、本題に戻ります。わたしが主人であることを放棄して、倫理法則の僕となること。このことを自発的に行うとき、わたしはそのことによって、他の人間たちにも呼びかけを行うことになります。
 
 
 その呼びかけとは、「人間は、悪のない世界に向かって進むことができるはずだ」という、理想に向かっての呼びかけです。この世界のことを、カントは目的の国と呼んでいましたが、私たちもそれにならうことにしましょう。
 
 
 目的の国とは、すべての人が自発的に倫理法則にしたがって生きる世界です。そこには、他人を傷つける人はいません。誰もが他人のことを何かのための手段としてではなく、目的そのものとして見ています。
 
 
 
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 私たちはすでに、「危険な国」や「平和ないい国」についての考察を行いました。私たちが利益のための利益というイデーにとどまっているかぎり、世界がディストピアに向かって滑り落ちてゆく危険は、つねに私たちに付きまとってこざるをえません。
 
 
 J・S・ミルはカントに反して、功利主義にもとづいて道徳を打ちたてようとしました。ミルの路線は、いわば、利益のための倫理という第一のアプローチを洗練させていったものであるといえます。
 
 
 そこにはもちろん、見るべきものが数多くあります。とりわけ、他者への共感というモメントはとてもイギリス人らしい発想で、本来ならばこのブログでもきちんと触れておきたいところです。
 
 
 けれども、私たちは、利益のための利益というイデーが、歴史においてどんな産物を生み出してしまったかを、すでに知っています。それは、行きすぎたナショナリズムと、二度の世界大戦にほかなりません。僕は、この過ちをふたたびくり返さないためには、カントの思考にもう一度立ち返る必要があるのではないかと考えています。