イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

理性は世界国家を夢みる

 
 すべての人が自発的に倫理法則にしたがって生きる、目的の国。この国こそが、倫理のための倫理というイデーがたどりつく終着点です。
 
 
 おそらく、この国は本質的にいって、世界国家であるほかありません。人類のすべてをメンバーとして組み入れる普遍的な共同体でなければ、地球上から完全に悪(他者への害を及ぼす行為)を消し去ることはできないでしょう。
 
 
 カント自身は慎重にも、歴史哲学の領域においては、現実の手立てとして国家連合を考えていたようですが、誰ひとり傷つく人がいないという道徳本来の理想に忠実になるなら、やはり世界国家でゆくしかないのではないか。今のところ、僕はそのように考えています。
 
 
 「妄言としか言いようがない。実現するはずがないではないか。」もちろん、僕も世界国家なるものがいつか必ず実現すると信じているわけではありません。率直にいって、この世から悪が完全になくなるというのは、絶対にとまでは言わないまでも、ほぼ確実に不可能でしょう。
 
 
 けれども、現実ではなく、あくまでもイデアのほうから考えるならば、どうもそういうことになるのではないか。「人間理性は、歴史の終着点としての世界国家をめざす。」人間というのは、どこまでも不可能なことを夢みつづける存在なのかもしれません。
 
 
 
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 ところで、目的の国という理想は完全な夢物語のようにも見えますが、私たちには、少しそれとは違うふうに感じられる時もあるように思われます。
 
 
 それは、私たちが、偉大だと言われている人たちの生涯を眺めるときです。
 
 
 前世紀でいえば、マハトマ・ガンジーマザー・テレサ、コルベ神父やキング牧師といった人たちの生きざまを見るとき、私たちは、驚きをともなう尊敬の念に打たれずにはいられません。
 
 
 彼らはみな、言葉にするならば、次のように言うことのできる信念を持っていたように思います。「他の人びとがどうであるか、現実の世界がどうであるかは、わたしには関係のないことだ。わたしはただ、世界をよりよいものにするために、できることをするだけだ。」
 
 
 彼らのような人びとがいるおかげで、目的の国という理想は、空疎で死んだものになることから免れています。おそらく、生涯をかけて人間らしく生きようと努めつづけた人だけが、倫理の次元をニヒリズムから救うことができるのではないかと思います。