イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

人間の尊厳について

 
 誰も他の人間を傷つけることのない世界をめざして、努力しつづけること。わたしが倫理の原則に従属するということは、そのまま、人類全体に向かっての呼びかけを行うことになります。
 
 
 ただし、人間には誰ひとりとして、他の人間が倫理法則に従うようにさせる強制力は持っていません。というよりも、倫理のための倫理というイデーにしたがって倫理法則を守るというのは、定義上、それぞれの人の自発的な意志によるほかないと言うことができそうです。
 
 
 自分の利益のためでも、刑罰への恐れからでもなく、ただ自らの意志によって、正しい人間たろうとすること。実現できるかどうかは別にしても、人間がこのような理想に向かってゆくことのできる意志の自由を持っているのだと考えることは、人間そのものにたいする尊敬の念を呼び起こさずにはいません。
 
 
 このことからもわかるように、意志の自由なるものは、まずもって、倫理の次元にかかわります。
 
 
 確かに、スピノザと同じように、意志の自由などというものは幻想にすぎないのだと考えることは可能です。けれども、その場合には、この世で行われる一切のことについて、次のように言わなければなりません。「一切はただ、起こるべくして起こる。人を救うことも殺すことも、すべては必然にすぎないのだ。」
 
 
 
 スピノザ 倫理法則 ピコ・デラ・ミランドラ カント
 
 
 
 自由意志の存在を否定するというのは、並大抵のことではありません。どれほど悲惨なことが起ころうと、目の前でどれだけ多くの人間が殺されようと、賢者としてただ微笑みつづけるだけの覚悟が必要です。
 
 
 それとは反対に、自由意志の存在を信じることは、たとえ現実の世界で何が起こっているとしても、人間には、よりよい世界に向かって行為する力があると信じつづけることです。
 
 
 これが、カントが進んだ道でした。また、ピコ・デラ・ミランドラのような人が人間の尊厳なるものについて口にするとき、彼の語ることは、おそらくこのような次元にまで通じているものと思われます。
 
 
 自由な意思から発して倫理法則を守るとき、人間は確かに法則に身を屈することになりますが、この存在論的なへり下りのうちにこそ、人間の尊厳もまたあるのではないか。倫理の根拠についての問いは、本当の自由とは何なのかと、私たちに向かって問いかけているように思われます。
 
 
 
 
 
 
 
 
[明日(8月6日)は、広島に原子爆弾が落とされてから71年になる日です。ちょうど倫理についての考察をしているところでこの日を迎えることになりましたが、9日の長崎と合わせて、あらためて平和の大切さを思い返すことにします。]