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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

善なるものへの憎しみ

 
 よりよい世界、もはや誰も傷つくことのない世界に向かって倫理を引き受ける意志の由を持つことのうちには、人間なるもののの偉大さが示されています。ところが、倫理にとって最も大きな危険が現れてくるのも、おそらくはこのときに他なりません。
 
 
 倫理のための倫理というイデーにたいして、あの悪魔ならおそらく、次のように言うことでしょう。
 
 
 「気にいらない。何もかもが、気にいらない。みんなで善に向かってゆこうというしみったれた考え方には、本当に虫酸が走る。」
 
 
 「お説教なんて、わたしにはうんざりだ。自分から善を選ぶ、だって?そうしたいなら、勝手にすればいい。わたしは永久に、ごめんこうむる。」
 
 
 「善人ぶっている人びとがいくら熱をこめて語っていたって、わたしはそんな愚か者たちとダンスを踊る気はないぞ。この世には、いつだって憎しみが存在している。この世は永遠に醜いのだ。」
 
 
 この悪魔の場合にかぎらず、この世のうちに善なるものへの憎しみが存在するというのは、まぎれもない事実です。
 
 
 人間には、みなで力を合わせてよいよい世の中を作ってゆこうとする願いがあるのと同時に、そんなことは死んでもごめんだと拒む頑なさも存在している。倫理の問いについては、この現実から目を背けることはできないように思われます。
 
 
 
 倫理のための倫理 悪魔 憎しみ
 
 
 
 倫理のための倫理というイデーを引き受けるかどうかは、あくまでもそれぞれの人間の自発性に任されています。倫理法則そのものを善いものとして認めるかどうかは、誰か一人の人間が一元的に決定できるような問題ではありません。
 
 
 すべての人間が自発的に倫理を引き受けなければ、目的の国がやって来ることはありません。しかし、そのような日は本当にいつの日かやって来るといえるのでしょうか。
 
 
 この点については、現実を眺めているかぎり、答えはほとんど絶望的であるといわざるをえません。それは、道徳性そのものへの憎しみは、おそらくは道徳性への愛と同じくらいに根源的なものだからです。
 
 
 「お説教なんて、わたしにはうんざりだ。」あの悪魔のつぶやきが聞かれないところなど、おそらくはこの世にほとんど存在しないのではないでしょうか。そのように口にする人の心のうちには、おそらくは恐ろしく根の深い憎しみがあります。それは、先にも述べたように、善なるものそのものへの憎しみにほかなりません。