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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

アウシュヴィッツから考える

 
 ところで、僕が本格的に絶対悪という問題について考えはじめることになったきっかけは、今年の四月に行った、アウシュヴィッツへの旅行でした。
 
 
 アウシュヴィッツでユダヤ人たちがこうむった悲惨と痛みについては、また別の機会に考えることにしたいと思います。これはもう、それだけでとても大きなテーマになってしまうでしょうから……。ここでは、強制収容所を作りあげたナチス・ドイツの側について、少しだけ考えてみることにします。
 
 
 アウシュヴィッツという場所を訪れたとき、ひとは戦慄を覚えます。それは、よく言われるように、そこに実現されているのが、人間を人間として扱わないような非人道的なシステムであるからにほかなりません。
 
 
 けれども、今回じっさいにそこに行ってみてショックを受けたのは、そこに、他の人びとを苦しめることへの残忍な喜びのようなものまでも感じとってしまったからでした。
 
 
 これは、近代の合理化のプロセスがゆきついた果てというだけでは足りないのかもしれない。ここにあるのは、収容される人びとに肉体的、精神的な苦しみを与えることそのものを目的の一つとする巨大なシステムにほかならないのではないか。
 
 
 今は倫理の根源について考えることが本題なので、アウシュヴィッツの細部について書きしるしませんが、アウシュヴィッツという場所が、倫理なるものについて考えるうえできわめて重要なものであることは間違いなさそうです。今回訪れてみて、多くの人がアウシュヴィッツの出来事を特別に重要視していることの意味が、少しだけわかったような気がしました。
 
 
 
 アウシュヴィッツ ユダヤ人 倫理 ナチス・ドイツ
 
 
 
 私たちは、「それ自体としてある善や悪など存在しない」というものの見方に慣れ親しんで生きています。そのため、あるものや行為を悪として名指すことについては、まずは拒否や抵抗の感情を抱くというのが一般的であると思われます。
 
 
 けれども、人間が決して行ってはならないことというのは、やはり存在するといわざるをえないのではないか。「人間は、存在してはいけない空間を作りあげてしまった。」これが、僕がアウシュヴィッツを訪れたときに感じた印象でした。
 
 
 倫理的な観点からみて存在してはならない時空のことを、ここで試みに反世界と呼んでみることにしましょう。
 
 
 アウシュヴィッツという場所は、僕には、倫理的思考にたいして反世界という問題を提起しているように思われます。すでにだいぶ長くなってしまっていますが、倫理をめぐる私たちの探求も、どうやら大詰めを迎えつつあるようです。